報復の連鎖と正義の実践 (1695文字)
子供のころ見たテレビ広告アニメーションの話です。
「社長が重役を叱って憂さを晴らします。重役は課長を叱て憂さを晴らします。課長は係長って憂さを晴らします。係長は平社員を叱って憂さを晴らします。平社員は会社にいる犬を蹴ってウサ晴らしをします。そのかわいそうな犬は社長の高級靴を噛んでボロボロにして憂さを晴らします。」
この広告の最後に何か啓発用の文言が表示されたんじゃないかと思いますが、記憶に残っていません。
開局間もない頃だったので、テレビ放送の時間が埋まるほど商業広告が集まらなかったので、仕方なくこのような広告を流して時間を埋めたのでしょう。
この短いアニメを観て、子供心に何の罪もない犬が蹴飛ばされるシーンは見るのが嫌でした。その後その犬がこっそり社長の高級靴を自分の犬小屋に持ち帰って噛み付いてボロボロにするのですが、背後にいくつもの噛みちぎられた高級靴が描いてあり、この憂さ晴らしの連鎖が何度も繰り返されていることが示唆されていました。
これを見る度、「憂さ晴らしの原因を最初に作ったのは誰なんだろう?」と思いました。
恐らく、社長か犬のどちらかでしょう。
自分の高級靴がなくなりイライラして重役を叱る社長。
アニメーションどおりに平社員に蹴飛ばされてイライラして社長の高級靴を持ち帰り噛んでボロボロにする犬。
終わりのない不毛の連鎖ですね。
メジャーリーグの野球の試合では、よくヒットを打つバッターに意図的に(故意に)死球をぶつけることがあるそうです。その死球は、速度が抑えられていて当てる場所も頭部を避け、できるだけ筋肉が厚い部位(臀部とか太股など)を狙うと言いますが、プロの投手が投げる硬球ですからぶつけられたらかなり痛いでしょう。
すると、相手チームはそのピッチャーか四番バッターに次の打席で意図的に(故意に)死球をぶつけるそうです。やられたらやり返す。報復死球です。
これが続くと乱闘になります。
彼らの論理では、「やり返さないと相手はさらに死球を続けて投げて来る。仲間を守るためにはやり返さないとならない。」という「攻撃は最大の防御」の発想です。
野球の試合には審判がいますが、審判が選手個人にできる処分はせいぜい「退場処分」くらいなので、報復攻撃の抑止にどれくらい効果的な力を発揮できるかというとかなり疑問です。
あまりにも悪質な死球や報復死球の場合は、「没収試合」なども考えられますが、そういう例は少ないようです。
私も、「報復の威嚇力で相手の暴力行為を抑止する。」という考えはすごく自然だと思います。だから、刑法の処罰に死刑があることに反対ではありません。
最初に相手チームの打者に故意に死球を与える行為はは最も非難されるべきと思いますが、審判が投手の故意を認定しない場合(この場合の死球は事故扱いです。死球を与えられた打者は一塁に行くだけです。投手にはなんら罰則が与えられません。)、相手チームの選手が報復しないと相手チームの選手は故意死球の脅威に晒(さら)され続けることになります。この場合、仮に死球を与えた投手に故意がなかったとしても、関係ありません。死球を受けた打者のチームが「今のは報復すべきだ。」と思えば報復開始です。
争いは誤解から生じることもありますし、傲慢から生じることもあります。
ただ、「こちらが善意なんだから、相手も善意に対応するだろう。」という前提は多くの場合成立しないと考えないと、自分ばかりか味方の被害も増えるリスク(risk 危険)ばかりが高まります。
メジャーリーグの場合は、「故意死球とそれに対する報復や乱闘も野球のうち」という了解が、選手、審判、観客にあるのだと聞いたことがあります。
こういうのって民族性というか、文化の違いなんだなぁと思います。
でも、世界の大多数の国や地域の人たちは「正義は法廷ではなく、腕力と銃や剣で貫かれる。」と思っているのだろうと思いますし、司法制度が完備していないところではそうあるべきだと思います。
私のこういう人間観が、世の死刑廃止論者の方々と見解を異にする由縁です。