『心理試験』解析 (3854文字)
『心理試験』(江戸川乱歩著)は、有名な倒叙ミステであり、優れた作品です。
私はこの物語を、NHKのドラマ(夏木陽介主演)で観たのが最初です。その後江戸川乱歩全集で読みすっかり好きになりました。
この文章は、『心理試験』の解析を試みますが、底本は『明智小五郎事件簿Ⅰ 「D坂の殺人事件」「幽霊」「黒手組」「心理試験」「屋根裏の散歩者」』(江戸川乱歩著 集英社文庫)です。
なお、この文章では作品の内容に深く触れますので、『心理試験』を未読の方はこれ以上この文章を読まないことをお勧めします。
1 登場人物
登場人物は、主に次の5名です。
① 蕗屋清一郎(ふきやせいいちろう)。犯人です。頭脳の優れた学生でもあります。
② 斎藤勇。蕗屋の同級生です。蕗屋が強盗殺人を犯す家に下宿しています。愚か者の役割です。
③ 笠森。予審判事です。この物語では主人公の明智小五郎より能力が劣っているように描かれていますが、素人心理学者でもあり犯人特定のためにこの「心理試験」を実施した人でもあります。業界では名の知れた人です。
④ 明智小五郎。主人公です。あまりにも有名な素人探偵です(私立探偵として怪人二十面相らと戦うのはこの後ということになります。)。
このほかにも、被害者である老婆、その老婆に仕える女中などがいますが、彼ら名前は作品には明記されていません。
2 構成
この『心理試験』は、この文庫本の117ページから158ページまで計42ページに渡ってかかれています。
この文庫本の1ページは17行×39文字の663文字という文字数ですから、おおまかに計算して42ページ×663文字=27846文字の作品ということになります。400字詰め原稿用紙で70枚弱くらいです。
また、この作品は1から6まで番号が振られた内容に細分化されています。ここでは、暫定的にこの1から6までを各々「項」と呼ぶことにします。
さらに、形式段落(行頭が一文字分字下げされているところから、次の行頭が一文字分字下げされているところの直前の文字まで。)を数えると全部で81段落あります。段落には形式段落だけでなく意味段落もありますが、ここでは形式段落に番号を振り(最初の形式段落を第1段落、最後の形式段落を第81段落)として必要に応じて明治しています。
(1)第1項
第1段落から第11段落までがここで記述されています。
ここでは、犯罪の記述に必要な登場人物の説明と犯人蕗屋の犯罪計画が語られます。
第4段落で蕗屋の強盗殺人計画の動機らしきものとして「あのおいぼれが、そんな大金を持っているということになんの価値がある。それをおれのような未来のある青年の学資に使用するのは、きわめて合理的なことではないか。これが彼の理論だった。」と語られます。
「あのおいぼれ」というのは、斎藤が下宿している家主の老婆(といっても六十に近いということなのでまだ五十代ですが。)のことです。
「そんな大金」というのは、その老婆が自宅に隠している莫大な現金のことです。
そして、蕗屋という青年は、このように自己中心的な合理性を持つ凶悪な人間という風に描写されています。
そして、蕗屋は斎藤からその大金の隠し場所を聞くに及んで(斎藤は偶然その大金の隠し場所を知りました。)、彼の計画を具体的に作り込んでいきます。この段階で蕗屋は、窃盗ではなく強盗殺人しかないと判断します。
ここから第12段落の終了まで、蕗屋の思考と強盗殺人の準備について語られます。
(2)第2項
第13段落から、強盗殺人の実行工程に入ります。
倒叙ミステリに馴染みのある方なら、この犯罪実行工程に後々犯人が追い詰められる失敗が紛れ込んでいることを想像されるでしょう。しかし、蕗屋はこれといった間違いをせず予定の犯罪を終えます。ただ、老婆を絞殺したとき、苦しむ老婆は屏風に触れて傷をつくっただけでした。屏風というのは、室内に立てて風よけや仕切り・装飾として用いる道具です。現在ではあまり見ることはないでしょう。
殺害後、蕗屋は老婆の金を半分だけ盗み、持参した札入れに入れました。残った半分を元の隠し場所に置いて来ることで、窃盗という動機を隠蔽したわけです。
その後、蕗屋は、前述の札入れを拾ったとして警察に届けました。「これは・・・安全という点では最上だった。老婆の金は(半分になったことは誰も知らない)ちゃんと元の場所にあるのだから、この札入れの遺失主は絶対に出るはずがない。一年の後には間違いなく蕗屋の手に落ちるのだ。」(127ページから128ページ)とあります。蕗屋は、盗んだ現金を手元においていては危険だと思ったのですね。また、現在は現金の遺失物は半年で拾い主に戻ってきますが、この当時の法律では1年だったのですね。
第23段落で、翌日蕗屋は老婆殺しの件で斎藤が嫌疑者として挙げられたことを新聞で知ります。
斎藤は、帰宅後老婆の死骸を発見した後、愚かにも老婆の隠し金(実際の金額の半分ですが)を盗んでいたのでした。さらに愚かなことには斎藤は、その金を腹巻に入れたまま人殺しのあったことを警察に届け出ました。不信に思った警察は斎藤の身体検査を行ったところ、大金がでてきたというわけでした。
このことは蕗屋にとって偶発的な幸運で、真犯人である蕗屋はいよいよ安全になりそうでした。
(3)第3項
第29段落で、いきなり小説の語り部は読者に語りかけてきます。「さて読者諸君、探偵小説というものの性質に通暁せられる諸君は、お話は決してこれきりで終わらぬことを百も承知であろう。」と。
そして、ここ以降が作者が是非読者に読んでもらいたいところであることが述べられます。つまり、以降が解決編であり作者がした工夫の開陳というわけです。
次の第30段落で、予審判事の笠森氏が登場します。
予審というのは、公判(刑事裁判のこと)に付するに足りる嫌疑があるかどうかを裁判官が決定する公判前の手続きで、予審判事はその手続きを通じて公判開始・免訴・公訴棄却を判断する人です。予審制度は現在は廃止されています。予審判事のイメージは、現在の検察官と考えればいいでしょう。ちなみに、ディクスン・カーの初期作品に出てくる探偵役のアンリ・バンコランも予審判事です。
さてこの笠森予審判事は、名判官ではありましたが本件について犯人を斎藤と特定することに躊躇していました。そこで、素人心理学者でもある笠森予審判事は、斎藤及び蕗屋に対して心理試験を施すことにしました。これまでいろいろ捜査した結果残った、容疑の濃淡はあっても結局この二人が怪しいと思っていたのです。
(4)第4項
第37段落から容疑者が蕗屋清一郎に絞られることが描かれます。
慧眼(「けいがん」。洞察力が優れていること。)な蕗屋は、笠森予審判事が心理試験を実施することを予想しその準備をはじめます。
あたかも、受験生のように心理試験の予想問題を作り、その対応に努力するかのようです。
蕗屋には、「なぜその能力と努力を学問一本に向けなかったのだ。」と思います。
(5)第5項
第52段落から心理試験の経過が3行で短く語られます。そして、第53段落で明智小五郎が登場します。
明智は、笠森予審判事の捜査と心理試験結果を検討した後に笠森予審判事に心理試験の弱点を説明します。
(6)第6項
いよいよ明智と蕗屋との対決です。
慢心していたというか油断していた蕗屋は、犯罪現場にあった屏風のことで明智と笠森の企みにはまり、犯人でなければ知り得ないであろう知見を述べて絞首台のロープを自分の首に手繰り寄せることになりました。
3 『罪と罰』、オースチン・フリーマンなどとの類似性
自己中心的な犯罪者による強盗殺人といえば、ドフトエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフを想起させます。江戸川乱歩も犯人像としてドフトエフスキーから借用したのではないかと思います。これは、完全な想像ですが。
倒叙ミステリといえば、オースチン・フリーマンのソーンダイク博士物が有名です。テレビドラマでは、『刑事コロンボ』シリーズや『古畑任三郎』シリーズが有名ですが、フリーマンは倒叙ミステリの創始者と言われています。ミステリっぽい物語としてはもっと古いものがあるようですが、ミステリと銘打って書かれた作品としての倒叙ものはフリーマンが最初です。
この『心理試験』はそのフリーマンの作り出した形式に乗っ取っていますが、心理学の知識と心理試験の結果のみから犯人を特定し、さらに犯人の口から自白に相当する言質を取るという点で新しいと思います。
フリーマンの作り出したソーンダイク博士は推理力が卓越した科学者ですが、その推理は現場で収集した証拠物を元にして構築されます。現代でいうならアメリカのテレビドラマCSIシリーズに近い感じです。
一方『心理試験』の明智小五郎は、犯罪捜査のためにいろいろな知識を詰め込んでいてその中に心理学があったという感じです。どことなくシャーロック・ホームズに似ています。
しかし、ホームズの捜査方は、虫眼鏡を使用したり土壌分析やタバコの灰の分析など科学的捜査に近いので、もはや分類そのものが無意味とも言えます。
厳密に言うなら、現場で虫眼鏡を使用するような捜査を軽視するエルキュール・ポアロに近いというべきでしょうか。
以上
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