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「政治判断」 情報の多寡と伝達速度に関係なく決断するのは難しい (1634文字)

 日本の近代史を読んでいて感じることがあります。

 例えば、1939年の5月から8月にノモンハン事件があります。
 同年(1939年)8月にドイツとソ連との間で「独・ソ不可侵条約」が締結されます。
 あれっ? 日本とドイツは、ソ連に対するため「日独防共協定」を結んでいたのに(これは1937年に「日独伊防共協定になっています。)。「防共」の「共」は共産主義の「共」です。なのに、その「共」のソ連と不可侵条約なんて。
 当時の日本の平沼首相が「欧州情勢は複雑怪奇なり」と言ったというのは、確かにそう思います。現代から振り返るとそれほど複雑でも怪奇でもないと思いますが、それは後知恵であってあまり自慢できるものではありません。

 ノモンハン事件について、子供のころの私にはソ連のBT戦車(「ベーテーせんしゃ」第二次世界大戦前のソ連が開発した一連の戦車)の強さとかジューコフ(ソ連側司令官。私はジューコフはスターリンに粛正されたと記憶していましたが、この投稿をするのに確認したところそれは記憶違いだったようです。)の優秀さという情報ばかりが目に入りましたが、事実は少し違うようです。

 1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。

 このポーランド侵攻に至るまでの経緯を読むと、欧州各国の強欲な領土獲得が酷くて読み進めることが辛くなります。領土を獲得する国があるということは、領土を失う国もあるわけで、この時代は、「力(軍事力)こそが正義」という時代でした。「弱肉強食」という国家関係が無批判に成立していた時代といえます。

 一方当時の日本をみると、欧州の動きに影響されて国家の進路を決めたところがあると思いますが、同時に明治憲法の統治条項が事態を制御できなかったのではないかという残念さもあります。
 でも、「江戸幕府が結んだ不平等条約を解消するには、大急ぎで法律を作り法治国家の体制にしなければならなかった。」という事情を考えると、「明治憲法(大日帝国憲法)を作った明治政府を一概に責めることはできないかな。」とも思います。

 私は戦争を「何があっても絶対反対」とは思いませんが、「付ける薬がないときに付ける薬」という以上には必要と思っていません。そういう立場です。

 それはそれとして、この1939年は激動の年に思えます。
 日本は、少ない情報量(情報伝達手段は電信だったでしょうから、その速度は今よりかなり遅かったと思います。しかも、その情報には通信者の主観が混入しています。)で欧州情勢を理解し、また国内に問題があった中で、政治や外交の判断をすることは極めて困難だったろうと思います。
 だからといって、当時の政府が判断を誤ったことの言い訳にはなりませんが、私たちの世代が受けた「戦前の日本人はどうかしていた」的な情緒的自虐論法は冷静な歴史分析とは言えないと思います。

 私が考える、太平洋戦争敗戦に至る日本は「全力でやるだけのことはやったが、戦争に負けた。」というもので、「日本人の能力が特に劣っていたわけではないし、欧州やアメリカと比較して特に残虐だったり強欲だったり貧相下劣だったというわけではない。」というものです。

 クラウゼヴィッツは、「戦場の四分の三は霧の中」と言っています。
 この言葉は、戦場では情報量が少ないことと、その中で決断することの困難さを指摘しているものと思います。

 私は、先日の自民党総裁選挙の結果について、高市さんが総裁になるものだと考えていました。合理的な選択をするなら多くの有権者(自民党員と自民党の国会議員)は、高市さんに投票するはずだと思っていました。

 でも、結果は石破さんでした。

 現代においても、戦場でなくても、多くのことは霧の中のように見えないものだと思います。現代の情報量は、1939年当時よりはるかに多いのに。
 「一寸先は闇」という言葉を思い出しました。

#ノモンハン事件 #独ソ不可侵条約 #ドイツのポーランド進攻

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