映画の中のスローモーション撮影 (1096文字)
映画の中では、アップ、ロング、スローモーション等いろいろな撮影技法が使われます。
その多様な撮影技法のうち、スローモーション撮影は使い方が難しいのではないかと思っています。
私が思うに、スローモーションというのは、強度の緊張状態にある人の主観で描かれる映像です。例えば、自転車を運転していて下り坂のカーブを曲がり切れずに塀にぶつかっていくというようなとき、自転車を運転している人が見る映像は色彩のない白黒のスローモーション映像になると言われます。これは、危機のとき人間は、視覚情報から生存の可能性を見つけだすため不要な情報の入力をカットし映像情報の取得に集中するからだと聞きました。もし、近くにその自転車を運転している人の肉親がいて、この状況を見ていたとしたら、やはりその自転車が塀にぶつかる様子はスローモーションで見えることでしょう。
となると、映画『ゲッタ・ウェイ』でスティーブ・マックイーンが散弾銃を発砲するシーンのスローモーションは、撃たれる者が見ているものとしてまたは銃撃戦の巻き添えになりそうだと錯覚するであろう観客が見ているものとして描かれていることになります(映像では、スティーブ・マックィーンが散弾銃の銃口をこっちに向けているので、観客がそう感じるのは無理がありません。しかも、映画の中では散弾銃で銃撃戦をしているので、観客は散弾銃で撃たれた場合の恐ろしさを知っています。)。
映画『七人の侍』で、豪農の子供を人質に小屋に立て篭もっている盗人が、助けに行った侍に刺され小屋から飛び出して来るシーンは、事の成り行きを固唾をのんで見守っている農民らが見ているものとして描かれているものと思います。農民は緊張して事の顛末を見守っており、そのためスローモーション撮影になります。そして、侍に刺された盗人が倒れ緊張が解けたとき、スローモーション撮影は終わり通常の撮影速度になります。
今日、テレビでインド映画『K.G.F』を観ました。アクションシーンでスローモーション撮影が多用されていたのですが、その撮影意図がよく解りませんでした。
主人公が敵と戦うときにスローモーション撮影するのはいいとして、敵が倒れた後もこれでもかとスローモーション撮影が続きます。しかも敵は一人ではなく、ラスボスが登場するまで何人もやってきます。
この映画監督は「アクションのシーンは、スローモーションで撮影するのだ。」と形式的に理解して撮影しているような気がします。それとも、別な意図があったのでしょうか。
インドは数学が有名なので、数学的論理性を以ってスローモーション撮影を使っているのかも知れません。