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映画『ダイ・ハード』と映画『リオ・ブラボー』   保安官と悪人の対決姿勢 (2159文字)

 テレビで映画『ダイ・ハード』を放送していたので面白く観ました。

 久しぶりにちゃんと観て、面白かったので何か感想を書きたくなりました。最初のアイディアでは、ロス市警本部次長のドウェイン・ロビンソン軽視と、KFLW-TVレポーターのリチャード・ソーンバーグの存在価値について書いてみたのですが、その第一稿がいまひとつしっくりしません。
 以下は一晩寝て考えを改め、書き直した第二稿です。

 



 映画『ダイ・ハード』の主人公ジョン・マクリーン(ニューヨーク市警巡査部長)は、映画中で「イピカイエー」(yippee-ki-yay)と発します。これは、カウボーイがロデオの時に発する口癖だそうですが、主人公マクリーンは、「見てろよクソ野郎。」とか「そうかい、やったらぁ。」といった意味で使用しているように思われます。

 でも、とにかくマクレーンは事件現場のロサンゼルスでも警官として市民の安全を守るため悪人に立ち向かいます。この姿は、カウボーイというより西部劇の保安官です。

 私は西部劇映画では『リオ・ブラボー』が好きです。『リオ・ブラボー』は、戦力的に劣勢な状態で、自分が守ろうとしている町の人々は静観しているという状況で、犯罪者を釈放しろと迫る悪人と対決する保安官ジョン.T.チャンスを描きます。
 一方『ダイ・ハード』も、人質を取っている武装強盗犯に拳銃で単独立ち向かう警官ジョン・マクレーンを描いています。

 両方の映画の主人公には共通点があります。
【リオ・ブラボー】強い使命感を表に出しませんが、保安官としての仕事の遂行には妥協がありません。

【ダイ・ハード】なんだかんだと弱音を吐きますが、人質の救出のための命懸けの行動に躊躇(ちゅうちょ)しません。

 両者とも、照れなのかなんなのか本心を表に出さない性格をしています。そして、武器の取り扱いに精通しており、爆弾(ダイナマイト)も使用できます。
 両者とも自分に惚れてくれる女性がいます。マクレーンには妻のホリー、チャンスには駅馬車でやって来たフェザーズです。
 さらに、両者とも少ないながらも支援者がいます。
 マクレーンにはロス市警巡査部長のアル・パウエル。
 チャンスには、保安官補のデュードとコロラド、それに牢屋番で足の悪い老人スタンピー。マクレーンと比較すると、チャンスの方が若干優位にあります。

 爆薬についていうと、チャンスは映画終盤でスタンピーにダイナマイトを敵の潜む家に遠投させてそれを撃って爆発させます。
 マクレーンは、映画中盤で敵によるロス市警への攻撃を阻止するためプラスチック爆薬をビル内で爆発させます。

 そして、両方の映画とも保安官・警官と犯罪者との対決を純化するため、余計な夾雑物(「きょうざつぶつ」あるものの中にまじりこんでいる余計なもの。)を排除します。『リオ・ブラボー』はチャンスの支援を買って出たパットが殺され、『ダイ・ハード』ではFBIが殺されます。また、『リオ・ブラボー』では、援軍というか巡回判事が来るのは6日後ですし、『ダイ・ハード』では、ロス市警本部次長のドウェイン・ロビンソン警視が役立たずであるため、事件便場を取り巻いているロス市警が当てになりません。このため、ロス市警のパウエル巡査部長からの支援も期待できなくなっています。

 さらに、両方の映画とも主人公の足を引っ張る登場人物がいます。
 『リオ・ブラボー』には、飲んだくれのデュード保安官補で、彼は失恋の痛手から酒浸りになり酒が切れると手が震えます。保安官のチャンスは、このデュードの依存症回復にも気を配らなくてはなりません。
 『ダイ・ハード』には、KFLW-TVのレポーターであるリチャード・ソーンバーグがいます。こいつは、人質の一人であるホリー(マクレーンの妻)の家に行き、その娘(マクレーンの娘)の映像をテレビに放送します。このことで、主犯のハンス・グルーバーは人質の中にマクレーンの妻がいることに気づき、マクレーンの弱点を掴みます。

 なお、このリチャード・ソーンバーグは、映画の中の役だとはいえ実に不愉快な存在です。日本でも、メジャーリーグの日本人スター選手の自宅を無配慮に取材したり、彼のカネを横領したとされる元通訳の両親を「突撃取材」と称して不躾な取材をたテレビ局がありました。
 圧力団体の不正行為については、口をつぐんでいるくせに、反撃できなさそうな個人には常軌を逸したことを平気で行うこのようなジャーナリストを自称する者(会社)の非公平性と反社会性に反感を持っている者には多いものと思います。
 このような自称ジャーナリストに対する嫌悪感が強いのは日米共通のようで、リチャード・ソーンバーグは次の『ダヒ・ハード2』でも非理性的で後先を考えない報道をして旅客機の乗客をパニックによる危険に晒(さら)します。これなど明らかにジャーナリストの欺瞞(「ぎまん」人をあざむき、だますこと。)と自己中心的性質を揶揄(「やゆ」からかうこと。)することが観客に受ける、という計算が働いて再登場させたものだと思います。
 

 『リオ・ブラボー』は1959年の映画で、『ダイ・ハード』は1984年の映画ですから、両映画には約30年間の差があります。
 でも、善と悪の戦いって多くの人を引き付けますね。

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