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科学的「確らしさ」 (4-2)

 科学の「専門家」ではないが、日頃考えていることについて書いてみる。簡略化や単純化には目をつぶっていただければ幸い。

帰納きのう演繹えんえき

 今時の学校の科目編成を知らないが、代数と幾何に分かれていた頃とは違っていても、数学という科目で、「帰納きのう演繹えんえき」は学んでいると思う。共に「条件」から出発して結論に至る推論の方法なので、「帰納法と演繹法」とも言う。

 「条件」と言ったが、これは実測や観察、あるいは統計など、推論を進める出発点となる材料を指す。今風に言えば、多分、データ(data)だ。とりあえずdataのdと、データに番号を振って「d-n」とする。最初のデータは「d-1」になる。

帰納の推論プロセス

 例えば、植物学者の牧野さんが土佐(高知県)と紀伊(和歌山県)の山中で花dを2つ採取して来た。姿形や生息環境が大変よく似ていて、共にA種に属する植物であることはほぼ間違いないと判断し、特に花弁が5枚であることに着目したとしよう。他の点で非常に似ている植物Bもあるが、決定的な違いは、B種は花弁が4枚であることだ。

  1. A種の植物d-1の花弁は5枚であった。

  2. A種の植物d-2の花弁は5枚であった。

  3. よってA種の植物dの花弁は5枚である。この推論結果をH-1(Hは仮説=hypothesisの頭文字)とする。

 d-1とd-2はデータであり、その材料の観察を出発点に推論を進め、仮説H-1に辿り着くのが、基本的な筋道になる。1と2から3を導き出すのを、「帰納的飛躍」と言う。1と2は(選ばれた)「事実」だが、3は、事実を踏まえているとしても(主観的)判断・判定だ。

 この推論には隠された前提がある。①同種の植物では、花弁の数は同じである、あるいは、②花弁の数はその植物の構造や機能を調べたり、分類したりする上で信頼できる手段だと言うことが、前提されている。

演繹の仮説検証プロセス

 一方、演繹はこの筋道を逆に辿る。牧野さんが今度は練馬で、似たような花d-3を見つけてきた。これもA種で、d-1、d-2の仲間ではないだろうか?

  1. すべてのA種の植物の花弁は5枚である。(H-1仮説)

  2. d-3の花弁の数も5枚であろう。(この時点ではまだ予測)

  3. 調べてみると、d-3の花弁の数は、5枚であった。だからd-3はA種の植物である。(検証=H-1仮説の証明)

 帰納は数の限られたデータについて言えることを、全てのことについても言えると推論するので、論理的根拠は無く、経験的と言われる。一方演繹は、論理的と言われるが、それは原理的に、すでに1の仮説を出発点=前提としていて、すでに言っていることの一部を改めて述べるので、そもそもが絶対確実だ。

  ちょっとややこしいが、d-3の花弁が5枚かどうか調べる時に、d-3を-d-3であるとする判断基準に、花弁が5枚という条件が入り込むと、同語反復になってしまうことに気をつけなければならない。

 データは多い方が仮説の確度(確からしさ)が上がる。また、「分散」していることも重要だ。牧野さんが土佐でd-1を採取した時、隣に生えている同種らしき花ではなく、紀伊に足を運んで採取したd-2を採用したことで、H-1の確からしさも上がる。データの分布(分散)も、量と共に重要で、これは統計を考えれば分かりやすい。

直観と理詰め

 データという事実・材料から(帰納的飛躍で)仮説を立てる時には、直観が大き気な働きをする。一方、仮説から出発してデータを検証していく作業は、理詰めだろう。

 余談だが、学校の数学は、膨大な数式と小難しい理屈ばかりで辟易へきえきしていた。確かガロアの「数学では直観がものを言う」と言うのに感動(安堵あんど)し、「芸術は爆発だ(岡本太郎)」に「数学は直観だ」と返すのがN君達との合言葉になった。

 データ→観察→(直観的もしくは帰納的飛躍)→仮説→データとの付き合わせ(検証)のプロセスを繰り返し、時に検証による仮説の修正を何度も理詰めで繰り返すのが、科学的な作業で、ある事柄を科学的の述べる時の「確からしさ」を上げる作業になる。

 大まかな推論プロセスはこんなで、深入りはしないでおく。

(4-3へ続く)


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