記憶と記録 ・・・ 公文書よ、どこへ行く?

「遠い昔の話」

 
 2011年3月、三陸海岸を襲った大津波の後、海岸沿いの高台で、津波の教訓を伝える石碑が、各所で「(再)発見」されたと言う。明治29年(1896)と昭和8年(1933)の2度にわたり、大津波という未曾有の天災に襲われた辛い経験を踏まえ、先人が残した教訓・知恵だろう。

 写真で紹介する宮古市に残された碑には、「ここより下に家を建てるな」と刻まれている。岩手県だけでも、このほか、洋野町、久慈市、山田町、釜石市、大船渡市、陸前高田市にさまざまな内容の教訓を伝える碑がのこされている。

岩手県ホームページが紹介する国土交通省のアーカイブより一部を転載

 明治・大正・昭和の科学者であり文学者でもあった寺田寅彦(1878-1935)が、日本各地の講演会で残した警句「天災は、忘れた頃に、やってくる」は、防災を語る時の名言となっている。

 「忘れた頃」には、時間的な経験則のようなものがあり、一つの世代=約30年が代替わりするたびに、記憶は希薄になり、やがては消えていく運命のようだ。最初の世代を祖父母とすると、2世代目は親世代で、3世代目が子の世代になるというふうに・・・「昔のこと」を語るのは、祖父母が多く、次に父母が引き継ぐというのは、誰しも経験するところだろう。

 3世代90年を経ることで、語る人がいなくなるか激減し、やがて誰も語らなくなる。個人が忘れ、地域社会が忘れ、最後に社会や国全体が忘れて行く。

 空間的要素もある。同じ時に起きたことでも、場所的に自分から遠いところで起きたことは疎遠になる。

 「遠い昔の話」と言うのは、「遠い」と「昔」の区切り方で意味が変わる。「遠い」と言うのは、一義的には空間的に遠いところで起きた話を指すが、「遠い昔」と続けると、それは「ずっと昔」のことを意味することになる。時間と空間を置き替えながら、記憶の希薄化は進んで行く。

 もちろん、記憶に残るのは、天災や事故・事件など、辛く悲しい出来事だけではない。楽しく懐かしい記憶もあるだろう。しかし、多分、前者の方がインパクトが圧倒的に大きく、心に深く刻まれることが多いだろう。

 記憶は、その出来事が本人に与えた衝撃度の大きさに左右され、基本的に主観的なものだ。だから、時間・空間の違いだけでなく、それぞれの人に、それぞれ個別に残るのだろう。共有するのが、だんだん難しくなることが、集団的な記憶の希薄化に関係してくる。

記録する文化の劣化

 記憶はいずれ薄れて行くものとしても、記録は残る ・・・ はずだ。ところが最近、そうばかり言ってはいられない事態の発覚が相次いでいる。

 記録の改竄かいざん・捏造、あるいは、「改竄」という言葉を使いたくない時に不都合な部分を変える=「修正」だ。公文書の改竄では、改竄を命じられて公務員としての誇りを踏みにじられ、良心の呵責かしゃくに追い詰められた人が自殺してしまった悲劇は、まだ記憶に新しいだろう。

 つい最近では、かつて大臣を務めていた役所の部下たちが公式に作成した記録=公文書を「捏造」と言い張る元大臣もいる。公務員が、忖度そんたくして、公文書を残したがらなくなるのではと「心配」する向きもある。

 記録の中でも、最も信頼を得て然るべき公文書の劣化が著しく、それにならったわけでもあるまいが、民間企業でも、検査データの改竄や、そもそもの検査の不正など、記録・報告文書の信頼性を大きく損なう事件が頻発している。多分発覚したのは氷山の一角だろう。

 こんなことは、かつてあったのだろうか? 深刻な事態だと思う。

 記録するという「文化」の歴史は長い。その頂点は多分中国だろう。気の遠くなるような数の官僚や文人が、数千年の長きに渡り、さまざまな記録を残し、引き継いできた。ある王朝が倒れ、次の王朝によって文書が「都合良く書き換えられる」と言うこともあっただろうが、そのまた次の時代に復元されたり、後世に再発見・再解釈されたりしても、記録への信頼は揺るがないのが前提だ。

 公正明大、正確無比の記録を求めるのは難しいとしても、それを追求する倫理感のレベルはあるはずだ。少なくとも、公文書に携わる個々人の倫理感が外部圧力で萎縮いしゅくあるいは減退げんたいしたら、記録に対する不信が生まれ、それは、文化・社会の劣化につながって行くと思う。

 ChatGPTの導入をめぐり、先ずは行政文書(公文書)から大いに促進すると、何人かの大臣が得意気に会見していた。でも、その元となるデータの信頼性が、記録という一角から崩れて行ったらどうなるのだろう? 

 「新しい技術には良い面と悪い面がある。要は使い方次第だ」という言い古された解説がある。しかし私たちは、個人情報・プライバシー保護の砦が次々に崩れるのを日々体験してきた。私たちは、プライバシーや人権の保護には弱い国に暮らしているのだ。「悪い使い方」に知恵を絞るのにけた人たちの方が、先回りして「(わる)賢く使う」のではないかと今から危惧している。

【注記: この投稿は、実は昨年秋にほぼ書き終え、発表するつもりだった。すると、「記憶にあるが記録にない」、「記録にあるが記憶にない」ととぼけた答弁で議会を馬鹿にした大臣が相次いで更迭こうてつされるという事件があり、「お蔵入り」にした。

 更迭のほとぼりが覚め(「反省した」本人も「復活」し)、投稿しようとしたら、今度は、自分が担当していた役所の官僚が作成した公文書を「捏造」と言い出す元大臣が出たりして、2度目のお蔵入りとなった。

 もう、平気で公文書=公的記録をないがしろにする風潮が広まり、本当に呆れてしまったので、半年ぶりに少し加筆して投稿することにした。公文書、本当にしっかりして欲しいです。】

(了)



 

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