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「普通」の人生は難しい

30代後半に突入した私が、今までの人生を振り返って思うのはタイトルの通りだ。とにかくこの国の「普通」は、やたらとハードルが高い。そう気づいたのは、恐らく社会人になってから。美大受験のために二浪したせいで同級生からは遅れをとり、新卒採用も枯れていた時代。華やかな才能があったわけでもない。自分が「特別」だと思えていた頃は、幸せだったと気づいた。



親を見て育つということ

子どもの養育者は基本親がベースとなる。私が産まれる前は両親共働きであったが、母は私が産まれると同時に専業主婦になった。時代としては当然といったところである。父はごく普通のサラリーマンだ。しいていえば、技術者寄り。人より機械が好き。私が知っている母と父はここからスタートしており、ふんわり「家庭」とはこういうものだというイメージが、幼い頃から刷り込まれている。

「やりたいこと」なんてなかった

そんな家庭で一人娘として育てられた私は、高校生の頃から悩み始める。いわゆる自分の「やりたいこと」が特になかったからだ。これは多くの人が抱えていることだと思う。そしてさらに私の場合は「得意なこと」もなかった。趣味としてゲームなどは好きであったが、あくまでプレイするだけであり、それを一から作りたいだとか考えたことはなかった。基本的にやる気がないので、学力も落ちる一方。ただ絵を描くことが割と好きだったので(高校は美術部所属)、どこかの芸術学部だとかに行けたら楽しいかな?くらいな考えだった。

美術の学部って?

高校時代の成績はひどかった為、付属校で内部試験があったにも関わらず行ける学部はゼロ。残された選択肢は外部受験だったが、当時美術部の顧問をしていた先生に「美術をしっかり学びたいなら、美大へ行きなさい」と言われ、その道へ進むきっかけとなった。受験のため地元の美大予備校へ通うようになり、学部は油絵科を志望。日本画科は繊細すぎて向いていないし、デザイン科も自身にセンスがあるとは到底思えなかった。ちなみに予備校へ通うまで、油絵具は触ったことも舐めたこともなかった。

現役合格できず

最初の受験で藝大の一次試験は通過したが、二次試験で不合格。私大は見事に全滅。ここから浪人生活になるわけだが、一浪目はなんだかんだ楽しく過ごしていた。昼間に絵を描いて、夜はのんびり好きなゲームをして。ただ一浪の受験で、どこにも受からなかったときから事情は変わった。何より親にお金を出してもらっているのである。予備校代はもちろん、キャンバスや絵の具代だけでも馬鹿にならない。二浪目に突入した時点で趣味のゲームを完全に断った。私なりの、親へ対する誠意だった。

荒れた生活

趣味を辞めたら辞めたで、またどうしようもない問題があった。その頃、私は通っていた予備校の教師と恋愛関係にあった。しょっちゅうではないが、サボったり朝帰りする日もあった。ある日もろもろの行動を母に咎められて、その時人生で初めて母に手を出したことは今でも忘れられない。「私の何が分かんの?」映画の台詞かいな!と今なら笑えるけれど、当時は私なりにいっぱいいっぱいだった。何より同じ学年の多くは華の大学生活二年目。それと浪人生活の落差といったら半端なかった。辛いというより惨めだったし、その世界を知りたくなかった。成人式は参列したくもなかったし、当然していない。

大学生活

二浪してようやく私立美大へ入学できた。授業自体は楽しかった。私の通っていた学部では様々な絵画や版画技法を学んだり、写真の現像を一から行ったり。友人は現役生も浪人生もいたが、正直同じ学年になってしまえば歳などあまり関係ない。ただ大学生活を送る中で、私は徐々にまた自身の「やりたいこと」が揺らいでいった。何となく絵が好きでここまで来たはいいけれど、周りはもっとこだわりが強く、表現の芯のようなものがあった。アーティストになりたいわけでもなく、美術の先生を目指すわけでもない。学芸員の資格課程は取得していたものの、就職は高い倍率なのを知っていたのでなれるとは思っておらず。そして大学三年目の頃から就職活動を開始して、また自身の無力さを思い知ることになる。

ぼんやりした就職活動

とりあえず就職活動をするか、となった時にまずは自身の学んだことを生かせる仕事を探した。当時mixiだのブログだの、アプリだので賑わっていた界隈はPCで絵が描ける、デザインできるという能力を欲していた。Photoshopやillustratorは当然のことながら、ゲーム会社はCADなど。ところが私の学部はパソコンを使った授業が一切なかった。この時点で結構詰んでいた。それでもポートフォリオ(自分の作品をまとめたファイル)を一生懸命つくり、エントリーシートを書き、面接へ赴き。不採用、不採用・・・もうお祈りメールは見飽きた。何度同じことを繰り返すのだろう。最終面接まで行った会社に落とされたのはさすがに堪えた。社長か偉い人だかに、「熱意があるなら、それくらいのソフトは使いこなせないとね」と言われて、ぷっつり糸が切れた。熱意って、アンタの会社へ入るために私は大学で勉強したわけじゃねーよ、と心の中で毒づく。そうして徐々に就職活動から足が遠ざかり、地に足がつかないまま卒業してしまった。

働かなければ始まらない

世の中の就職率はひどいものだった。しかし世の中のせいにして、健康な20代半ばの人間がのらりくらり生きているわけにもいかないので、とりあえず仕事を探した。このままではまずいという感覚は、このやる気がない私にも残されていたらしい。美術とはかけ離れた小売業でアルバイトを始め、運とタイミングで社員になった。お店のPOP(商品の説明やブランドの解説など)をつくる仕事を任され楽しかったのもつかの間、半年ほどで会計業務に回されて地獄を見る。ただ人には恵まれ、周りに助けられて何とか仕事を続けることができた。

DINKsを好きで貫いているわけではない

20代滑り込みで当時付き合っていた9歳年上、今の旦那と結婚して地元を離れて7年。結婚して3年くらいは子どものいる生活を想像したりしたが、私は喫煙者だったしそれを辞めてまで、という気持ちだった。普段通っているレディースクリニック(不妊治療専門ではない)で、先生に「ステップアップ(今以上の治療)しますか?」と何年か前に聞かれて、私は「子どものいない人生も視野に入れてますので」と断った。二人の生活は気楽だ。お金だって自分たちの好きなことに使える。時間だって仕事を除けばフリーだ。

それなのに、何だか拭えない世間からの疎外感。

子なしとしての生活

地元を離れた私の友人はとても数少ないが、子どもを産んでいる人の方が少ない。というより産んでいないから、産んでいる人との付き合いが薄くなっていくのは当然だ。母と父は子どもについて何も言わなかった。親なりに気を遣っていたのだと思う。結婚4年目か5年目で一度妊娠したけど(記録を処分してしまったので正確には分からず)流産してしまった。母に「子どもは授かりものだから」と声をかけてもらいながら、正直ホッとしていた。子どもを大して好きでない私が子どもを産む、ましてや母になるなんて勘弁してくれと。そう思うことで、微かにくすぶっていた「悲しい気持ち」を無意識に抑えていたのかもしれない。

職場の元同僚で歳も近く、定期的に会う友人(女性)がいる。その友人は結婚していて子どもを持たないという選択を決めており、大型犬を一匹飼っている。理由は様々あるだろうが、会って話すと彼女なりに悩みを抱えていた。それは大なり小なり私の悩みと通じるものがあり、例えば周囲からの「子どもは?」の圧。産んで当然の考えで聞いてくるのか、夫婦二人だけではいけないことのような風潮は一体何なのか。私はDINKsなどという言葉だけが先走り、世間の認識なんて何一つ変わっていやしないのではないかと常々思っている。

子持ちになってみて

いわゆる一般的な高齢出産へ差し掛かる歳になり妊娠し、無事出産を終えた。妊娠中は「このタイミングと選択で良かったのか」と思ったりもしたが、自由に決められるもんでもないしな、とあっさり考えることを辞めた。二人の生活が長かったため、子どものいる生活を想像していたのはとうの昔だが、もうなってしまえばやるしかないので毎日格闘の日々。育休を取っているが先のことは何も考えていない。

育児支援の在り方についてポツリ

少し前に駅前の育児支援広場へ行って来たが、正直な感想。こういう場所へ来られる時点でそんなに悩んだり、困ったりしてるわけじゃないなと思った。自分の足で、子どもを抱っこなりベビーカーに乗せて、知らない人と会話して。私はめちゃくちゃ気を遣って疲れた。同じような悩みを共有して「わかる~!」っていうのをみんな求めてるのか?女子高生かよっていう。

実際に子育てしてみて恋しいなと思うのは、知り合いとゆっくりお茶などを飲みながら話す時間だ。子持ちは得てして子どものことをやたらと話したがるが、私はそういう話題から離れたい。特に職場の人とはたまに連絡を取り合っているが、お店の状況や新店オープン、異動の話題などを聞く。私が休暇に入ってからも、変わらない日常が流れていることに安心する。育児に向き合っていると、社会から取り残されているような感覚になるから。ゲームを一緒にやっていた友人たちの話題も、Xでいつも楽しく見ている。


しいて言うなら、いつか地元に帰って海の近くで暮らしたい。そしてコーヒーを飲んでのんびりできる昼下がりを夢見ながら、今日を生きる。







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