三愛ビルが解体される

また一つ思い出の建築が消えます。
 銀座四丁目の通称「三愛ビル」です。
 1963年、銀座の角に円筒のビルができたのには、建築界は腰を抜かしました。
 ビル自体が広告塔なのです。モータリゼーションの幕開けで、ほんとうに日本は輝いていました。銀座のビルの屋上には光輝く丸や三角のネオンサインが付けられて、街角が明るくなった時、透明ガラス張りのビル自体が光の筒、光の広告塔ができたのです。
 「日建設計」の林昌二というまだ無名の建築青年が設計したと、たちまち建築界では有名になりました。
 私がちょうど竹中を辞めた時です。
 「組織に個性は生まれない」と信じていたので、日建設計という組織にこんな建築が出来たのか、と少なからず動揺しましたが、ちょうど丹下健三が「代々木の体育館」や「東京カテドラル」という傑作中の傑作を作った時で、そのころの気負った建築日常が懐かしい。だから「三愛ビル」は特段の思い入れがあるのです。
 その後も、「林昌二って、良いもの作るじゃん」と、その後も注目していましたが、林昌二の晩年、北山、木下、谷内田さんたち「ワークショップ」の初期作品で、敷地一杯RCの筒を作って、その中に住まいの櫓を突っ込むという「エディキュラー 」の作品ががありますが、それを林昌二が批判しました。そして、結びで「法律は守れよ」と書きました。
 ちょうど私は「東京建築士会」でエッセイを連載していたので、「あの光る広告塔のビルを作った青年建築家が『法は守れよ』とは、歳は取りたくないもんだ」と書いてしまいました。今思うに、違法かどうか知りませんが、彼らにしてはあまり良い作品じゃあなかったですね。 
 ついでにその頃出来た石山修武さんの「伊豆の長八美術館(?)」も林さんは、漆喰塗りを批判していましたが、石山さんの反論も凄かった・・・今はどうなったでしょうかねえ・・・
 ま、いずれにしても「三愛ビル」と林昌二は、建築界に大きな存在でしたね。
 

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