ある男の後悔
私の名前は目単 賀須男。
それだけしか思い出せなかったのだが、主治医の柳本先生の見立てによると、それも一時的なものであり、次第に記憶も回復してくるであろうということだったので、少し希望が持てた。
私はその後、看護師の北野さんに付き添ってもらい、脳波の検査をし頭部MRIを受けた。
柳本先生の見立て通り、脳波は正常。
頭部MRIの結果においても、脳の記憶を司る海馬周辺にも障害は見当たらなかった。
私は少し安心した。
検査室から病室に戻ってまもなく、私に面会したいという者たちが現れた。
女性と子どもだ。
どうやら、私の妻と子どもらしい。
「あなた・・もう大丈夫なの?」
まだ記憶ははっきりしないが、この女性のことは覚えている。
すごく後ろめたい気持ちがある。
「あぁ、記憶がね、まだ完全に戻っていなくて。
すまない。でも、あなたが私の妻で
あることはわかるよ。」
確か・・名前は消子だった、はず。
がんばって今できる最大の笑顔で答えたが、妻の次の一言は心に刺さった。
「”元”妻ね。
もうあなたとは離婚が成立しています。」
そ、そうだったのか。
俺は、バツイチ、なのか。
「パパ・・大丈夫なの?
ずっと寝たままだったけど。。」
”元”妻の傍らで大人しく我々の会話を聞いていた男の子が口を開いた。
あぁ、この子は俺の子ども・・だ。
名前はええっと・・・
「あぁ、心配かけてすまなかったな。
は、はいど。杯努、だな。」
そう、目単 杯努だ、俺の息子の名前は。
たしか・・5才だったはずだ。
「大きくなったな。5歳だもんな。
もう年長さんだもんな。」
「パパ、ボクもう、6歳だよ!
小学生!ほら、ランドセルもママに
買ってもらったよ!」
そうだった。私はもう1年も寝ていたのだ。
心なしか、記憶にある息子よりも大きくなっている。
ランドセルも・・そうか、入学式も見れなかったな。。
「あぁ、ごめんね、パパ、ずっと寝てたからさ。
ごめんね。」
「うん、パパ、ずっと寝てたもんね。
起きないかと思ったよ。
弟も元気だよ!今日は来てないけど。」
弟?もう一人、いたのか。
まだ記憶が戻らない様子に、”元”妻はイライラしているようだ。
別れたとはいえ、さっきまで昏睡していた男に対して、もう少し気遣ってくれてもいいとは思うのだが、必死で二人目の子どもの名前を思い出そうとした。
「そ、そうか。
ええっと・・・れいと、そうだ、玲人だ。
玲人は元気なのか?」
「うん、元気だよ!
もうね、元気すぎてそこら中歩き回って、
大変だよ!」
杯努はうれしそうに弟のことを話した。
本当に弟思いのいい子に育っている。
「そうかそうか、パパも早く玲人に
会いたいよ。」
そういったとき、”元”嫁の形相が鬼のようになった。
あれ、まずいこといったかな。
「あなた、ね。
昏睡状態から戻ったと聞いたときは、
正直会いに来るか、迷ったのよ。
本当は顔も見たくなかった。
ただ、杯努にとってはたった一人の
パパだから、と思ってここまできたのよ。
それなのに、玲人に会いたいだって?
よくそんなことが言えたわね!!」
元嫁は本当に怒っていた。
その理由に関して、本当にわからない私はただ謝るしかできず、何回も何回も謝った。
理由はわからなかったが。
そこで看護師の北野さんが病室に戻ってきてくれ、その様子に見かねて、間に入ってくれた。
北野さんが元妻の代わりに、私がこうなった顛末を話してくれた。
(北野さんは私が昏睡している間、元妻の話を聞いていてくれたらしい。)
私は普通の会社員だった。
だがある時、Twitterで大阪万博の欺瞞について語るツイートを見かけて、そこから「反万博派」に傾倒していったらしい。
「大阪維新の会が私腹を肥やそうとしている」だとか、「万博はIRをするための布石であり、利益誘導の象徴である」といった主張を鵜呑みにした私は、時間があればTwitterの住人となり、誹謗中傷を繰り広げていたとのこと。
それについて、その時はまだ妻であった彼女は諫めてくれていたらしいのだが、次第に私ののめり込み具合はエスカレートしていったらしく、せっかくの休日もそういった「反万博のデモ」にも参加するようになっていったらしい。
折しも、玲人がまだおなかにいる時期で、妻も情緒が不安定な時期だったようだが、その妻を放ってそういう活動に参加していたらしい。
今聞いても、頭がおかしい奴であったと思う。
挙句の果てには、玲人の出産日にも、「反維新のデモに参加する」と言って立会いもしなかったそうだ。
本当に人として終わっている。心からそう思う。
さきほどの玲人に会いたいという私の発言で、元妻がキレてしまったのは、当然のことだ。
元妻には本当に悪いことをしたと思うのだが、北野さんの話はそこで終わりではなかった。
「なぜ私は1年と5か月も昏睡するに至ったか」である。
北野さんが俺を見る目が最初から冷たいような気がしていたのだが、妻の話だけではなかったのだ。
実は・・私は「反万博」に対する思いが強すぎた結果、過ちを犯し、一線を越えてしまった。
「このままではメタンガスで子どもたちの
命が危ない!」
「協会は絶対に何か隠し事をしているはずだ!」
そう考えた私は、狂信者と化した同志とともに、私は建設途中の夢洲万博会場に、深夜、不法侵入を試みたそうだ。
そして建設途中の建物の中に入り事故に遭った。
事故、といっても自業自得である。
建設途中で、機械排気が不十分な建物に入っていったのである。
その建物では事故があった現場同様、メタンガスのガス抜き管の入れ替え作業中であったのだが、まだ作業途中であったため、十分な機械排気ができていなかったのだ。
真夜中で作業もしていなかったため、機械による排気も止まっていたことも運が悪かったのだが、
そんなところに私は突入してしまったのだ。
「メタンガスが発生していれば、
匂いですぐに気づくだろう。」
そんな馬鹿な思い込みがあった。
今思えば本当に愚かだった。
メタンガスは無色無臭である。そんなことすらわからないほど、その当時の私は視野狭窄状態だったのだろう。
室内に充満したメタンガスの中に私は突っ込んだ。
幸い、明かりはLEDで取っていたので火気はなく、爆発こそしなかったが、高濃度のメタンで満たされた部屋に入ったからには無事ではいられない。
私は急性の酸素欠乏症になりその場で昏倒した。
私たちが侵入したことにより、センサーが発動しすぐに警備員が駆けつけたのだが、高濃度のメタンガスが部屋に満たされていたので、私の救助は簡単にはできずに、治療が遅れたらしい。
それでこの様である。
北野さんが私に対して冷たい目で見てくるのも、理解できた。
完全に私がバカだった。
「でも、パパが生きててよかったよ。」
落ち込んでいた私に、杯努は優しく声をかけてくれた。
「パパは悪いことしちゃったけど、
杯努にとっては、パパはパパだよ。
変な人たちと一緒にどっか行っちゃうまでは、
いいパパだったもん。
パパにはね、ちょっと言えなかったんだけど、
ほんとはね、ちょっと行きたかったんだ、
万博。」
私は幼い子どもにまで、無理をさせていたのか。
「でもね、パパにそれをいうと、
パパが可哀そうだと
思ったから言わなかったの。
でも、小学校で行けたの!
楽しかったよ!なんかね、すごかった!」
目をキラキラさせながら私に万博を話す杯努を見ていた私の視界は、次第に涙でにじんでいった。
段々と戻っていく記憶。
杯努と過ごす時間を削ってまで傾倒していた反万博の活動の日々。
「お願いだから、出産の日は一緒にいて!」
そう懇願した妻を置いて、ご丁寧に無駄なヘルメットまでかぶって参加した反万博のデモ。。
私は一体、何をしていたのか。
「ごめんな、杯努・・・ごめんな・・消子。」
許されるならば、あんな馬鹿なことをした日に戻りたい。
そう思っていると、収まっていたはずの頭痛が急にぶり返し、今度は激痛へと変わっていった。
脳には異状なかったはずだ。
それなのに、なぜ?!
身がよじれるほどの激痛が私の体に走った。
ベッドの上でのたうち回る。
「パパ、パパっ!大丈夫?!」
「ねぇ、あなたっ!ここまで人を心配させて
おいて、目覚めたと思ったら今度はなに?
また私たちを心配させるの!?」
「目単さん!!目単さん!!
誰か!柳本先生を、早く!!」
薄れゆく意識の中で、杯努や消子、北野さんの叫び声が聞こえる。
私はいったいどうなってしまうのか。。
激痛に襲われて意識を失った私は、脳の奥の白いもやを進んでいった。
青い管や赤い管の中を通って、途中、幾千もの「目」が私を凝視した。
どんどん私に迫ってくる赤くて青い何か。
これは裁きの神か。
やめてくれ!私を見ないでくれ!!
私が悪かった!!
子や妻を蔑ろにした私が悪かった!!
償いなら何でもする!!!
そう叫んだ時に、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。
「目単さん!!目単さん!!
意識をしっかり持って!!
酸素マスクからゆっくり、長く息を
吸って!!」
救急隊員らしき人が、私の免許証を見ながら私の名前を呼んで、私の意識が再び消えてしまわないよう、呼びかけ続けてくれているようだった。
ここは・・どこだろう。
地べたがヒンヤリとしている。
どこか、アスファルトの上に寝かされている。
そうかここは・・万博の工事現場だ!
私が不法侵入した、あの建物の外のようだ。
「目単さん、わかりますか。
よかった、意識が戻りましたね。
他にどこか痛いところはありますか?
瞬きで答えてください。」
救急隊員の人は私にとてもやさしい。
私は不法侵入した犯罪者であるのに。
救急隊員の方の指示に従って、私はゆっくり、大きく息を吸った。
頭痛が和らいでいく。
そうか、この頭痛は酸素欠乏によるものだったのか。
だいぶ楽になった私は酸素マスクを外して、救急隊員にこう尋ねた。
「すみません、私はまた・・
ここからやり直せるでしょうか。」
今から考えても突拍子もない質問だったかと思う。
その救急隊員の方は、少しだけ呆気に取られた後、こう答えてくれた。
「そうですね・・今から、ですね。
これから、ですよ。
万博もまだ始まってもいません。
これから、なんです。
目単さんもこれからがんばれば、
いいじゃないですか。
いのちは輝いています。
まずは目単さん。
今は元気になって家に帰ることを
意識しましょう。
さぁ酸素マスクを戻して、ね。」
元気になって、家に帰る。
あぁ、私にはまだ帰る家があるのだ。
消子は許してくれるだろうか。
土下座でもして、謝ろう。
帰ったら、杯努を抱きしめよう。
玲人のことも、これからもっと大事にする。
神に誓う。
そんなことを考えながら、私はストレッチャーで運ばれていった。
薄れゆく意識の中で、私は工事現場に掲示された「赤と青の目の神様」のようなキャラクターと目が合ったような気がした。
そうだ、あれは・・ミャクミャクさんだ。
脳の奥で私を見つめていたのも、ミャクミャクさんだったのかもしれない。
ミャクミャクさんは脳の奥で会った時とは違い、少しおどけた表情で私を見送ってくれた。
「元気になってまた来てや。」
完
この物語はだいぶフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。