私という名の舞台



何故書こうかと思ったかというと
どうせ思い込みの世界で生きるなら、自分の暮らしたいイメージの中で暮らして欲しいし、
『解釈を変える』これを伝えたいから

人は自分の描いた人生を歩んでいるなんて、想像も出来なかったけど
ただ私が選んでる気は、少なからずしていた
結婚相手も、末期ガンになって余命宣告される人生も私が望んだ人生

そんな私の人生と解釈や思い込みについて書こう

そしたら少しでも今より安心・安全の世界で暮らせる人が増えて、大人が楽しんでいたら、子ども達の希望になれる! そしたら死にたいなんて思う人は間違いなく減る


私はずっと、生きながらに死んでいるような生き方をしていたから、そんな人が一人でも減ったら嬉しい

解釈が変わると、起こる事象は変わらなくても幸せになれることをどうしたら伝えられるだろう

そう
今の私に出来る精一杯のことをしようと思い、私の経験を書くことにした


1,私の人生 生まれて〜10代

大阪で母が40歳の時に生まれた私
今でこそ高齢出産はザラだけど
当時は稀で
母も父も悩んだのではなかろうか
実際、父は『もう産むな』とお腹の中にいる私を蹴ったらしい

後から聞いた時はショックだった

それよりも昔は生きていくのに必死だから
そんな昔の自分に浸っている場合ではなく

とりあえず目の前にある
自分の好きな物だけをみるようにしていた
シャボン玉が好きで、よく写るんですで撮影していたことは覚えている

3歳位の時、母が父にビール瓶で殴られて
頭から血を流し、幼い私はただただそれをみることしか出来なかった

そして何故か呼ばれた父の膝に乗って
目の前の現象を見ていた

この時私の心は灰色になり
何も感じなくなった

それから持ち家を勝手に売った父は自由奔放な人だけど、綺麗好きで自分の大切なものはいつもキチンと整っていた

私は父の性格と母の外見に似たんだね

勝手に売ったけど、母はそんな父に立ち向かうのではなく、夜逃げするように私と姉を連れて家を出た

そこからは嵐のような人生が始まり

私の救いは
埼玉に引越してお隣に住んでいた柳沼姉さん

荒れ狂う姉のそばに居られなくて、いつも逃げ込んでは一緒にドーナツを作ってくれたり、私を癒してくれた

お姉さんは子どもが出来ず悩んでいた
私はお姉さんにとっても必要だったんだと思った

荒れ狂う姉は毎日のように母と喧嘩
皿やヤカンが飛ぶ中で成長する私も次第にグレていった。

姉は母から逃げるように高校中退⇨同棲⇨妊娠⇨結婚⇨出産し、でもスープの冷めない距離に住み、助けてほしい時は母に言えるわけもなく、私が手伝いにいった

姉が居なくなって八当たり相手は私となり、いつも罵倒を浴びせられ、辛くなると私は姉の家に行って話を聞いてもらっていた。

みんな辛かった
母は望まない人生を歩んでいると、そんな自分を責めていたから他人にも責めていた

姉はそんな母から離れたいけど、離れられない自分を責めていたんだと、私は思った

私は辛かったけど、高校もやめ、大好きなお箏をやりつつ、お金が欲しいから、水商売もカジノディーラー、居酒屋も、兎に角時給の良いバイトはなんでもした

そして良い音色のするお箏や着物も自分で買って、自己欲求を埋めていた

2,私の人生 20代〜30代

そんな中、私はいつも何処かで
『母の介護は自分する』ものだと思い込んでいた

本当は誰でも良くて、母が幸せを感じられることが最優先

でも何故かそんな感覚で自分を縛りつけていた

そんな中姉は離婚、私は一人暮らしだったので、助けを求める姉を見捨てられず、甥と姪も一緒の4人の同居生活が始まった

だけど姉は自分の不安を解消する為に、私は束縛した

姉はそんなことしたかったんじゃない
一人で子育てをするのが不安だっただけ

当時の私にはそれが理解出来ず、私は十二指腸潰瘍になり通院生活
でもディーラーは続けていた

そうして夜間に働くのが辛くなり
昼間に働きたくて、それを姉に伝え介護の仕事を始めた。資格は高校中退してすぐの頃、姉がヘルパーの資格を取ると言うので、私も一緒に通い取得していた

そして23歳で私は久しぶりの昼間のお仕事が
嬉しくて、雨の日も、雪の日も、自転車で30分かかる事業所に通った

その位の運動が私には必要だったんだろうと思う位辛くなく、むしろ楽しかった

初めて姉に、自分の気持ちを伝えた私は、今度は離れて暮らしたくなった

お箏の先生に相談したら『じゃあうちに内弟子として入ったら離れられるんじゃない?』と提案を受け、お箏の先生の持ち家であるマンションに住まわせていただくことにした

当時は猫も飼っていて
その猫も一緒に住まわせてもらうことになったがそれもまた私の悩みの種になってしまった

引越し為にも職場を変え、今度は老健で働き始めた。が、ここがまた最悪な所で名前は言えないが、精神科併設の老人保健施設で、人を人として扱わないばかりか、預けている親族も似たような人が多くいた


みんな私を映してくれていた


私は流され易くすぐ真似をする所があり、入浴時は正に芋洗いのように、一人で一気に二人の頭を洗うという凄技を覚えた
働いて3日で辞めたくなった会社に一年働いて、最愛の友人以外は最悪な環境だったけど、沢山学ばせてもらった

今は感謝だけが残っている


世の中は表裏一体


猫と共に先生にマンションに住んだのは良いが、私の猫は人見知りが激しく、臆病猫だったので、特に猫が嫌いな人だと、ちょっと触れただけでも噛みついたり,引っ掻くことがあった

私がいる時はまだ良いが、私が夜勤で寝ている時もお弟子さんはくるから、そんな時に起こったことは私も関与出来ず、先生からお叱りを受けた先生もそんな攻撃をするとは思わなかったのだろう


先生はお箏の先生として素晴らしかった
人としてはまだ未熟な所もあるの私との生活は
ストレスも高かったのであろう
内弟子に入ってからはよく叱られ、私もストレスが溜まっていった

だけど夜勤明けでも休みの日でも、人手がなければ私が弾くので、腕は上がった。それでも納得いかないし、だからと言ってそれ以上の努力は出来なかった

楽しまないと身につかない

そうして約一年の内弟子生活は終わり、快適なまた一人暮らしに戻った

仕事はやはり真っ当に働きたくて、有料老人ホームのフロアリーダーとして転職。

そこでもまた様々な学びがあった

25歳で一人暮らしを始めた私は正直浮かれていた

お酒好きな私の為にあるようなバーを最寄駅に見つけよく通い、常連さんと遊ぶようになった
老若男女様々な人と色んな遊びも教えてもらった

それに色んな殿方とも付き合わせてもらい
浮かれていた私は
独身という言葉を信じて付き合った彼が
実は妻も子どももいるとわかり
ショックで死にそうになった

もう死ぬんじゃないかと思ったけど
死ぬことも出来ず
また彼の居ない生活に戻るだけ

この経験のお陰で
私は自分の目を更に信用することに

実は付き合いを決める時
怪しいと思ったが
知り合いのおじ様が太鼓判を推してくれたので
付き合ったという経由があった

ただ一つこの経験は
私に傷を残し
その傷を色んな男性と付き合うことで埋めようとする自分がいた

そして3年働いてくうちに
私の知識のなさを痛感し、高認を経て、大学生に

働きながら学ぶのは決して楽ではないが
仲間のお陰で最後まで楽しめたんだと思う

大学3年の時、夫と知り合った
けどその時はまだ他の人の夫だった

3,結婚生活と子育て

夫は元奥様に浮気され離婚

心の傷は人を優しくする

そこで怨みに変わるのは自分を許していないから
どんな自分も受け入れ、認め、許し、愛していたら、人を怨んだりしない

私は結婚するならバツイチの人が良いと密かに思っていた 
そんな私の目の前で、心に傷を作り、離婚した人を私が放っておくわけがなく

すぐに声を掛けて、友達も一緒にパーティーをした

すぐに意気投合し、結ばれた

がしかし、その時に元奥様が妊娠していることを知り、夫に聞くと『どっちの子か分からない』と言うではないか❗️
私は意を決して、元奥様の浮気相手に相談し、DNA鑑定を実施
傷付いている夫はそっとしておき、全ての手配を行い、結果は夫の子

でも何故が嬉しくて、夫と一緒にスキップして階段を登ったw

そこから妊娠がわかるまでの時間は短かったが

流産してしまい

胸が苦しくて、苦しくて、寝ても覚めても泣いて、泣き続けた


喜怒哀楽は思い切り味わった方が感情が残らない

丁度その頃『うまれる』という映画がやっていて
観たら泣くのはわかっていたが、思い切り泣きたくて観た

辛かったが自然とスッキリした
そしたらまた前進できた

その後長男を妊娠した時

妊娠した瞬間を感じた
上手く言えないが
それこそ精子が卵子の中に入って
着巣した瞬間みたいな感じ

私は『あ〜妊娠したんだ』って思った
今度は大丈夫と、思いながらも
不安は払拭出来ず
妊娠を確認した後も不安だった

後半はハリが強くなった時もあるが
自然分娩で生まれた
出て来た幸太郎をみて感じたのは
『この子は私と一緒に成長する子』
だと直感的に感じ
まるで見えているように、幸太郎が部屋を見回していたのを鮮明に覚えている

ここで私にとって最愛の友人が突然死で亡くなった

今は消化出来ているが
当時は哀しさを超えて怒りに近い感情があった
なんで私じゃなくて、あなたが死ぬのぉーって
幸太郎が居なかったら後を追っていた

それ位ショックが大きく、夢の中で何度も謝られ、私は泣きじゃくり
何回かの夢の時、箏奏者の彼は、天国にいる奏者達と壮大な演奏を聴かせてくれ

それ以降は夢にも出てこなくなり
私もその頃には落ち着いていた


そんな中2年後に次男を妊娠
私的には4月の遅生まれを狙っていた

今考えると烏滸がましい
そしたら次男は4月1日に生まれてきたw

この時私の思い通りにならなかったことは
私に気づきを与え、そんな次男はラッキーな子どもだと感じた

次男は生まれた瞬間
『私だけでなく様々な方に育ててもらえる子』
と直感的に感じた

そこから男の子2人の育児生活が始まり
意外と幸太郎が晴万を可愛がってくれるので
安心してみていられる日々に安堵した

夫は相変わらず忙しいので、出産から一週間はいたがその後は出張続き、うちの母はうちに来た時に手伝ってくれ、それ以外は義母が奈良からわざわざ来てくれ、約一カ月間私と赤ちゃんのお世話をしてくれた

義母はとても理解力のある
素晴らしい女性

私は女性の中で一番尊敬している

義母は帰ってからも、子育ての相談に乗ってくれたり、いつも励ましてくれ、陰から応援してくれていた

そこからの育児もまぁ波瀾万丈w

そんな育て方してたからか、幸太郎は手が早く、知らない子が隣に来るとを叩いたり、蹴ったり、全て私に返ってきた

それでもあの子に良い教育を与えたいと思っていだ私が選んだのは、近所で人気の幼稚園

だけど手を出すから怒られる⇨そしてまた傷つき手を出す、の悪循環を断ち切るには転園しかないと思い、年少の夏休みに近所の幼稚園を手当たり次第見て回った

3件くらい回ったかと思う
その中で最後に行った幼稚園がモンテッソーリの幼稚園(医師であり教育家であったマリア・モンテッソーリ博士が考案した教育法)✨

ここを見学したら、幸太郎は『僕!ここに通いたい❣️』といったのよ
もう嬉しくて嬉しくて😭
園長先生には泣きながら今までの経由を話した

そして2学期からその幼稚園に転園し
次男もそこに通った

そこでは勿論お受験で通わせている親も居たけど、私の周りはみんな子どものことを優先に考えている人達ばかりで、尊敬出来る人ばかり

そう❣️幸太郎は、私の環境を整えてくれた!

それでも私は
全然自己肯定感や自己承認力がなく、ずっと自分を責め続け
苦手な家計簿をつけてみたり
本当はお金の計算なんてしたくないのに
そんなことばっかりやって
自分を追い詰めた

そこで学んだことも多い
ほぼお金の知識は、その期間に知識を得た

株式投資やFX、不動産投資、暗号通貨投資イベント会社に貸付したり、そんなクラブに入って学んだり、法律ギリギリの方法を教わっては実践しての繰り返し

小学生になってからも、嫌なことを引き寄せる私は、とことん自分の子育てに自信をなくしていた

そうして幸太郎が3年生になった時、やりたいことはしていたけど、もうここでは生きて行かれないと感じ、しげちゃんに引越しを提案

うちは半社宅のため、会社にも確認し、やっとの思いで今の住まいに引っ越した

その半年後に
普段、頭痛なんかしない私が頭痛に悩まされ
これはおかしいぞとなり、しげちゃんに相談したら『脳外科に行こう』と言われ

行った病院で約5㌢の
大きな脳腫瘍が見つかった


4,ガンと私

見つかった時はそれこそ
『ガーン😨』ってなった
だからガンって言うんじゃないかと、本気で思ってる

今でこそ笑えるが、当時は『私は生きられるの?』と、真剣に考えた

それこそネットで脳腫瘍の情報を集めては不安が募り、もうネットは信用ならないと半ば諦めながらも、辞めることが出来なくなっていた

ネガティブな情報ばかりが目につき、それでも私は初期だと思い込もうとした

だけど紹介された大学病院で、脳腫瘍ステージⅣグリオーマ(神経膠芽腫)と言われ、奈落の底に落とされる気持ちになった


『私は死ぬんだぁ』と思った


医者にこれからこうなりますよ、言われた通りに悪くなる私w

医者の言葉の重みを感じた


そうして手術をしても残された時間は約一年と言われ、でも最後は苦しまずに死ねますから安心してくださいねと言われたのも覚えている

そんなんあるか‼️って思うでしょw
本当に真面目な顔で担当医に言われました

日に日に頭痛だけでなく、文字が上手く書けなくなったり、うんち漏らしたり、記憶がなくなったり、吐いたり

兎に角色んな症状を経験でき
もうこれ以上ないって位辛くて辛くて…
もうその頃には女性である前の人として行動すら危うくて、そんな私をしげちゃんはいつも側で支えてくれた

それでも生きたいから、色んな危険性も承諾して、手術を受けた

私より旦那さんの方が決意が必要だったのではないかと思う

だって一歩間違えたら、一生介護生活になるのだから

もしかしたらそこまで考えられなかったかもね。

夫婦で必死だったから

5,緊急入院

遂に症状が悪化の一途を辿り
もうこれ以上待てないと思い、緊急入院

手術は空いてないから直ぐには出来ないと言われ
余計不安になった

そう、私は医者の言葉に振り回された
自分軸で生きてない証拠

そんな中2021年4月28日手術
手術後は暫く集中治療室で過ごした

せん妄の中で、元の病室の看護師さんに沢山の仕打ちを受けたからw

コロナのお陰で夫は在住に、子ども達も寂しい思いをしなくて済んだ

私は病院嫌いも相待って、看護師さんのことも先生の事も信用出来ず、自分から寂しさの中で生活した

唯一の救いは緑のお化けと記憶が曖昧になってお友達になれたこと
でなきゃ入院生活は過ごせなかった

初めて長期で家族と離れて、悲しくて哀しくて、毎日泣いていたから
だからせん妄もあの時は助かったかも!?

せん妄がなかったら、もっと悲しくなって寂しくなって、精神的に保たなかった

せん妄を通して知ったのは、
脳の影響力が心にも影響すること

記憶って、辿ることみんなあるとおもうけど、脳が幻想でも観たと思ったらそれは事実になることを知った

それからまもなく普通の病棟に移り、緑のお化けはいなくなり、私は普通の感覚に戻り、普通の入院患者に戻っていった

それでも夜中に目が覚めたり、汗を大量にかいたり、点滴は漏れるし、手の掛かる患者だったと思う

だからどんな看護師や医者にも感謝している

後遺症もてんかん以外なく、すぐに普通の生活に戻れたのは、西洋医学のお陰だから

けど
これから先で、西洋医学に頼ることはない

私は医者もナースも苦手だから
そんな所に行った方が病気になりそうだからw


入院生活は約2ヶ月で終わり、後は通いながら放射線治療をすることになった

6,退院後、自分と向き合う中で
(1)身体と向き合う中で

帰宅後
一晩寝たら頭にあった血の塊が1つ消えた

どんだけ家が好きなんだい❣️

そして息子2人に告知した
長男は叫び声のように心から泣いて、次男は静かに泣いた

案外私は冷静で、こんな時でも性格の違いが出るんだなぁって思った

術後の遺症でてんかん発作が起きた時は、ソファで寛いでいたら、急に身体が硬直して、声が出したくても出ず、そのまま立ち上がった状態からガタンと大きな音と共に倒れた
倒れた後もまだ意識があって、痙攣を起こす私に必死で声をかける夫の声が少しずつボヤけて、小さなり、消えていった

目が覚めたら病院のベッドの家で点滴を打っていた

私も初めての事に驚いたけど、私より家族の方が驚いてた
だってそんな経験したことないからね
しかも倒れた後は痙攣を起こしているから、みんなが見た事ない顔した私が居るんだから、相当動揺したと思う

その頃は食事療法も徹底してやっていたので、3回位までは酷かったけど、次第に収まってゆき、抗てんかん薬は全然効かないのですぐにやめ、そしたらてんかんは次第に収まり、残りは(と言っても3年後に)ECOウォーターの水を飲み始めたら治った

これは私の体感だけど話だけど、人の身体は70%がお水でそのお水が全身に電気信号に伝えている
だからしっかり昔のようにミネラルたっぷり含むお水なら必要な電流は身体を流れるから、自然と身体の不具合も治るんだと感じた


1回目のてんかん発作の前に、ネットや本を読み漁り、治る情報はないかと必死で探した

そしたらガンの患者学研究所という所に辿り着き川竹文夫さんに辿り着いた

ご自身やその後関わったガン患者の経験から、ガンに特化した自然療法をわかりやすくまとめてくれている
それに会員には毎月月刊誌を郵送してくれ、私はそこで学んだ自然療法を一年半続けて、とりあえず余命より生きられた時、このまま同じ治療をしてもこれ以上良くならないような気がした

だからガン患研を退会し、また学べる所を探した

私は様々な方法を通して自分と向き合った

自然療法(全身生姜罨法、びわ葉温灸、ヘソ灸、手足温浴、お灸)・食事療法・キネシオロジー・和みのヨーガ・日記・自分への手紙・占星術・まなゆい・朝散歩・ヨモギ蒸し・半身浴等々

先ずは最低限の毒を身体から出す為に、全身生姜罨法、半身浴、ビワ葉温灸を行った

当時の1日のスケジュールはこんな感じ

3:00起床・瞑想
4:00排便
4:30散歩
5:30全身生姜罨法
6:15半身浴and読書
7:10ビワ葉温灸
9:00料理
10:10昼食
11:30買い物
14:00料理
16:10夕食
18:00入浴
20:30入眠

我ながら厳しい毎日を過ごしてたと思う

食事はガン患研に教わった、ガンに特化した方法とガンに特化した甘味料ゼロの食事療法

言うなれば玄米菜食の甘味料なし方法

食事は米は玄米、勿論有機また、自然農法のもので、肉も魚も摂取せず、野菜のみ
玄米菜食の甘味料も使わない方法
味醂も使わない方が良いと言われ、必死な私は従ったが、一年半後には味醂も魚も肉は鶏の胸肉のみ食べるようになった


この生活のお陰で、死への恐怖が緩和し、てんかん発作も緩和し、余命も逃れたのが大きかった


しかし、これ以上健康になる気がせず
辞めたいという気持ちが強くなり、ガン患研を退会し、そんな生活も徐々にやめていった


何となく食事に対する考え方を整えたかった

そこで調べている時に船越康弘さんを知った
以前に次男さんと知り合ってはいたので、そうゆう方がいるのは知っていたが、正直そこまで興味が湧かなかったが、船越さんの食の考え方や想いは、共感し、この人に食のことを学びたいと思った

そうして船越康弘さんのwara塾に入り、食事やお手当てだけでなく、生き方や考え方等、康弘さんは様々な方に教わった情報を、惜しみなく私たちに提供してくれた

(2)心と向き合う中で

心は日々の日記や、自分へのまなゆいなどで整えていた

最近でこそ短くなったが、はじめは何を書いて良いのかすら分からず、徐々に自分の気持ちが書けるようになったら、今度は長い時は何ページも朝から書いていたw

どんだけ溜め込んでいたんだろう

日記のお陰でそれまで自分の字が汚くて嫌だったのに、丁寧に書いているうちに綺麗になって、今では書くのが大好きだ


 ずっと感じていた
私の身体が硬い事と心の密接な関係性

そんな時船越康弘さん動画の中で、興味を持った人がガンダーリ松本恵子さん

この方はRCTと認知真理学、和みのヨーガで世界が平和であることを心から願っている

そんなガンダーリさんに私は興味を持ち、先ずはメルマガ登録して、毎日くるメルマガの中に、たまたまオンライン和みの体験会の告知が来たので参加させてもらった

頭から腰までのお手当てをオンラインで行ったら
驚くほど身体が癒され、今の私に必要だと感じたので、即オンラインに入った

やってくうちに全身がしたくなり、六本木でフルコースが出来ると言うので早速行かせてもらい、通うようになった

もうこれは私に必要と思い、毎日家でも出来ないかと調べたら、インストラクターになるの時の通信教育に同封されているDVDで家で行える❣️と聞き、インストラクターになることを決意した

そして毎日やって行くうちに、以前よりかは身体が柔らかくなって行くのを感じた身体がゆるもと心も緩んで、考え方が更に柔軟になって行くのを体感した

そして2024年3月に晴れてインストラクターになった

ただそれだけでは気が済まず、身体をほぐすために、様々な方法を、今も試みている

和みのヨーガの中は、様々のお手当のいいとこ取りが入っているので、その中から

官足法やキネシオロジー、ツボ押しや中国医学に興味を誘われるままに行った

キネシオロジーは特に興味深い内容で、今でも私の基本となっている

特に使わない部位を動かす眼球運動や、舌の回したり、顎を動かしたりは、日常生活の隙間時間を見つけてはやるようにしている
官足法も週に1回は近所の集まりでみんなと一緒に行っている


それに自分の中の『怒りの感情』がどこからきているのかわからなくて、私の悩みの一つだったけど、DNAを通じてご先祖様からきていると言われた時は、何故か腑に落ちた

だからこそ、自分の感情は味わい尽くそうと思えるようになった


どんな感情も喜怒哀楽全て味わっていい
むかついたって、怒ってもいい、感情を押し込めるくらいなら出した方がいい


それとガンダーリさんのお陰で、一生出来る仕事にも出逢えた

それはECO Water 株式会社。
要は水道水を濾過する装置の販売。


これの素晴らしい所は、この濾過装置で濾過したお水を下水道に流すだけで、地球環境に貢献できる事
私は昔から、地球を汚す自分が許せなかった
だから使っているだけでそのストレスがなくなる

これは私の中でかなり大きく、世界中のみんながこんな濾過装置を置いてくれたら嬉しい

私は昔は、自分を責めて、だから私の周りの人も責めて、そして生きづらくなり、自分の首をまるで紐で締めるように苦しくて…
それこそお酒を飲んでは、その紐を緩めていた

だけどそんな私の向き合い方を変えてくれたのは、支えてくれたのは私の周りにいる沢山の方々

色んな見方や考え方を教えてくれ、私の捉え方も段々と変わっていった

7,夫婦、そして家族へ

私はガンになったおかげで様々なことと向き合えるようになった

社会の原点は夫婦なので、先ずは夫婦仲をよくすること

元々仲が悪いわけではない
だけど、重要なことを話し合わないでいた

それって国が、国民に何も伝えずに法律を変えるのと変わらない

だからとことん話し合った
夫婦の概念や家族とはとか、子どもの事、食事のこと、お金のこと

夫婦に関わる全てのこと、細かいことも全て話し合うようになった

夫婦って近いから、色んな感情も湧くし、時にライバルになることもあって、それを伝えたらすぐに気付いてくれて

うちの旦那様は頭が柔らかいから、すぐ対応も変わった
そのおかげで夫婦仲は良くなり、毎日朝はハグするくらい仲良しになった

夫婦の価値観さえ同じなら、大概のことはうまくいく

元々感覚のズレは小さかったから一緒になるのは時間だけ

そうして子どものことも、今も現在進行形で、よく話し合う

たまに子どものいる所で話し合っていると、『喧嘩しないで』なんて言われる時もあるけど、全然喧嘩ではなく、真剣に話し合って、お互いの意見がズレた時に、相手に自分のことを伝えているのをハッキリ話しているだけで、子どもはそう感じるらしい


そんな夫婦をいつも見ている息子達
私の心をいつも表してくれる長男と、子育ての喜びを与えてくれる次男

次男はいつも長男のマネをするが、割り切っている所もあり、それでいて子どもの可愛らしさと、子育てに関する問題をしっかりと表現して、私達に子育ての有り難みを教えてくれる存在

長男はガンになる以前の私をずっと表現してくれていたが、最近は私が緩むと長男の頭も緩んで、拘りが少しずつ解きほぐれてゆく

長男を見ていると、私を表現してくれるから、私がどんなふうに変わったのかがわかって、見ていると面白い

自分をする事を喜怒哀楽をもって教えてくれる息子の存在は、かけがえのない存在

正に私の希望

いつも側に居てくれてありがとう

夫婦において、やはりお金の価値観を合わせることは大切だと思ってるけど、まだまだ課題もあるが、今は使い切る気持ちでお金をしたいことに使う毎日


8,自分の神体と向き合う

身体は神体

様々な方法や手段を学んで気づいたのが


『自分軸で生きる』ということ


私は今もそうかもしれないが、兎に角芯がブレやすい
人が良いと言えば試すから、余計にそうなるのだろう

でも私の一番の成長は
そんな自分を受け入れられるようになったこと

ガンになる前は、そんな自分も嫌いで、またそんな風に考えてしまう自分も嫌いと、負の連鎖

だけどガンのお陰で、そんな自分を受け入れられるようになってきた

どんな自分も、自分が味方なら怖いものはない

自分を責めるから恐怖や不安に苛まれる

自分軸って、イメージすると太い柱みたいなイメージがあるでしょ?

それも思い込みなんだよね


本当はブレてもブレなくても
自分を愛してさえすれば、それは自分の軸になる

なかなか、それが落とし込めなかった

私は子どもの頃から自己否定の中で育ってきたから

そんな思考も、私に伝えるために起こった事象と
考えられるようになったことが一番大きかった

ずっと自分のことを愛してくれる誰かを探し求めていたから
それが自分!
とわかった時は、それでも苦しくてなんで出来ないんだろうって責めてみたりw

心にも雨も降れば嵐もある台風だって来る
心のお掃除も大切

だけどそれらもひっくるめて、自分で
そんな自分を愛することが出来たのも
私とご縁ある、皆様のお陰なんだと腑に落ちた


そしたら怖いのは自分だけ
みんな優しいから

私の神は自分あり、ご先祖様であり、私が宇宙で、自然そのもの、宇宙全てが私にとっての神様

神様はいつも私に教えてくれるから、極力従うw

極力と書いたのは、わかっているけど行動に移せない時、気付けない時もあるからね


だって、誰だって従いたくない時もあるでしょ?

そんな自分も
受け入れ
認め
許し
そして大好き❤


おわりに

私の舞台は、まだ折返し地点にも満たないくらいです
これからも沢山の出来事が起こるでしょう

でも、今の私なら大丈夫?

きっとこれからも沢山の経験をしながら、沢山のことを学び、時には失敗もして、それでも起き上がり、また歩いたり、走ったりしながら、そんな人生を味わって生きて行くのでしょう


こうして自分の半生を書き上げられたのも、皆さんとの出逢いのお陰です

心から感謝しております

そしてnoteという書く環境を作ってくれたから、毎日こうやって、私の内側を曝け出すことができ、今まで人に言えなかったことも、ここに書き記す事で、私は癒されております


心から感謝と尊敬を最後に、これからも使わせていただきますね

私に関わる皆様

これからも、私という舞台を楽しんで読んでいただけたら嬉しいです


横山 千晴

















#創作大賞2024 #エッセイ大賞#オールカテゴリー大賞

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