見出し画像

コンプレックス 18

■コンプレックス18

美空ひばりが東京ドームで復活コンサートを開催したのもこの時代である。
彼女が突然福岡済生会病院に入院したとき、日本中にこのニュースは大々的に放映された。
1987年4月のことで、コンサートツアー途中の出来事だったと記憶している。
病名は、両側大腿骨骨頭壊死、そして慢性肝炎・・・
いずれも治らない、不治の病気である。

当時はどういう病気であるか、一切報道されていなかった。
その後、彼女は済生会病院を退院し、自宅療養に入る。
そして、信じられないことに翌年の1988年4月 美空ひばりは、東京ドームで復活コンサートを開催したのであった。

東京ドームでコンサートを行うこと自体、日本人では初めてのことであり、当時はその話題で持ちきり!という状況であった。

そして、そのコンサートの翌日 ホテル・エドモントで記者会見が行われた。
なぜホテル・エドモントで行われたのか・・・
通常の流れで考えると、このような大々的な記者会見は赤坂プリンスやニューオータニなどの大型シティホテルで行われのが常なのである。
当時、報知新聞社の深見社長はホテル・エドモントをこよなく愛し、毎日のように利用していた。
エドモントの社員で深見社長を知らなかったら“もぐり”と言われるくらいの存在でもあった。

この深見社長は芸能人の面倒を見るのが何より好きで「伊東ゆかり」だの「園まり」だの
しょっちゅう色んな芸能人(主に歌手)を連れてきていた。

そういえば「パトロン」という言葉を最近全く聞かなくなった。
これは何語だか知らないが、多分フランス語あたりだと思うのであるが、
パトロネージュ:支援する という単語の変化形だか、なんかだと思う。
ちょっと知識をひけらかしたくなったもので・・・

脳ある鷹は爪を隠すというが
noを言わないのがポリシーの孝(たか)は、手の内をさらけだす(笑)。

美空ひばりも深見社長に大変お世話になった一人のようで
深見社長から「エドモントでやればいいじゃないか!」と言われてそれに従ったものと思われる。

問題はここからである。ここからが非常に重要である。
その記者会見とパーティーの会場担当責任者を務めたのが、エヘン!このボクなのである。

当時ボクは毎日色んな宴会、会議、展示会などを担当していたが、
前記したように芸能人の記者会見などというのはエドモントでは皆無に等しく、
エドモント始まって以来の出来事であったとも言えるのである。

まあ、記者会見など大して難しいことでも無く、
事務所の人にスタート時間と終了予定時間を確認し、
ボクは、美空ひばり登場の際 演台までエスコートすることになった。

ところが、記者会見スタートギリギリになって 事務所の人がわんさか集まっている取材陣に対してこう言ったのである。

「ひばりが中央のイスに着席し、私が手をあげるまで撮影は一切しないで欲しい。もし、一社でもその約束を破ったら、この会見は中止します!」

そして、ボクには
「ひばりはよく歩けないのです。ご案内は、本当にゆっくり、ゆっくりでお願いします!」

いよいよ本番、ボクはゆっくり、なるべくゆっくりと彼女を演台へ案内した。
確かに彼女はほとんど歩けない状態であった。

それでも何とか演台までたどりつき、私がイスを引いて着席した・・・
まさにその瞬間である。
『パッパッパ』 『カシャカシャカシャ』
凄い光と音・・・ カメラのフラッシュとシャッターを切る音である。
通常であれば、登場した瞬間から皆が好きなタイミングでシャッターを切るのであろうが、今回はそれが禁じられていた為、全てのカメラが一斉に動き出したわけである。

ステージ上はスポットが当たっていて十分明るいのであるが、
その突然のフラッシュ攻撃に、私は目の前がまっ白になって何が何だか分からなくなってしまった。

そして、そのフラッシュの嵐はしばらく止むことがなかった。

記者会見の後、会場を大宴会場に移動しパーティーがスタートした。
美空ひばりは深見社長の横に座り、驚いたことに彼女は
「私がお料理作ってきたのよ、食べてね!」と、
タッパを次から次へとテーブル上に広げ始めた。
それを見た私は「おいおい、聞いてね~ぞ!」なんてことは言わなかった。
一方、深見社長は
「お~美味しそうだね!」なんて言いながら、彼女の作ってきた
煮物やら、揚物やらを美味しそうに食べていた。

彼女も自分が作ってきた料理を社長さんと一緒に食べていたが、
二人ともホテルの料理には最後まで一口も手を付けなかった。
なんかよく分からないが、複雑な心境であった。

そして、何度も言うが記者会見など経験したことが無かったボクは、翌朝のワイドショーにその記者会見の様子が大々的に放映されるということを全く考えもしなかったのである。

経験が無いというのは、まさしくこういうことなのである。
翌日も何ごとも無かったかのように朝早くから仕事をしていた。
美空ひばりの仕事は、昨日の仕事で 次の日になればまた全く別の宴会の仕事である。

キッチンの前を通ったとき
「お~美空ひばり、笹川さん いい男に映っていたぞ!」
と冷やかされた。

その後も、会う人会う人 色んな人から声を掛けられた。
最初は何のことを言っているのかすら分からなかったが、
宴会予約のオフィスに行くと
「もう笹川さん、すごかったのよ!TBS、フジテレビ、テレビ朝日、日テレとどこをまわしても、どこも同じシーンを放映していて、笹川さんがエスコートしている場面が映っていたのよ!」
というわけである。

だったら、その時に教えてくれよ!って感じ・・・
とても残念なことに、その模様を誰もビデオに録画してくれたわけも無く、自分ではその映像を見ることが叶わなかった。

それからしばらくの間、結婚式で会う司会者や奏者など色んな人から
「美空ひばりの記者会見、見ましたよ!」と声を掛けられ続け
「あっ、どうも・・・」と、毎度毎度同じリクションを繰り返した。

そんなことがあってから1年後・・・
1989年6月24日 美空ひばりの訃報が大々的に報じられた。
もの凄く大きな衝撃を受けた。
あの記者会見の日、彼女の公に出来ない事情を知り、
なんとか頑張って欲しい!と、ココロの中で願っていたが、
彼女の体に巣食った病魔は、信じられないような早さで、彼女の命を奪ってしまったのだ。

テレビは彼女の死を、これでもかと何度も何度も流し続けた・・・
東京ドームの不死鳥コンサートの様子も、何度も何度も流し続けた・・・

私は身内が亡くなったかのような、なんとも言い表しようのないショックを受け、
そのことについて、まわりの人間と軽々しく話をすることを避けた。

今でも時々テレビで美空ひばり特集をやったりすることがある。
その度に、あの記者会見の模様、パーティーの模様、
そして1年後に聞いた訃報のことなどを思い出してしまい、
切ない気持ちになるのだ。

今後、日本に彼女のようなスターが登場することは無いであろう。
彼女は成長する日本の中でスターであり続けた。

そんな彼女のことを、私は自分の誇りとして
これからも大事にしていきたいと思うのである。


よろしければサポートをお願いします。 いただいたサポートで「タコハイ」を買いたいと思います!サンキュー!!