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骨の髄までホテルマン 加藤敬三 著

加藤 敬三 

1930(昭和5)年、中華人民共和国・山東省青島市生まれ。慶應義塾大学文学部英米文学科在学中、コンチネンタルホテル(Continental Hotel)にてアルバイト勤務、1953(昭和28)年卒業と同時にフェヤーモントホテル(Fairmont Hotel Tokyo)へ就職。あらゆる部署・職種に携わりホテルのゼネラリストとして成長を遂げる。活躍の舞台を関西に移し、1968(昭和43)年ホテルプラザ入社。1973(昭和48)年南海電気鉄道株式会社によるホテルを核とした難波都市開発事業に参画(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『骨の髄までホテルマン Executive Hotel Officialは語る』より

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私がシリーズで掲載している「コンプレックス」に詳しく書いているが
私はフェヤーモントホテルで修行させていただいた。
加藤氏は、私の大先輩である。

本作の中にこんなことが書かれている。

***

1964年。入社10年目。
10月に開催した「東京オリンピック」の2ヶ月前、私はその8月から9月中旬まで
アメリカやヨーロッパのホテルの視察に行った。
帰国すると、フェヤーモントホテルの営業担当支配人(支配人兼営業部長)を仰せつかった。
ちょっと偉くなったなあーー。正直にそんな気がし、34歳半ばの私は得意げになったもので
ある。支配人にもなれば自分のデスクもいる。営業上の秘策練りも計算もデスクがデスクが
無ければ落ち着いて仕事なんぞ出来ないのだ、と。
そこで、小さな事務室の片隅に、私は自分のデスクを一つ用意した。
ある朝いつものように私は7時半に出勤して事務室に入ると、フェヤーモントの小坂武雄社長が
なんと私の机を放り出す作業にかかっているのであった。机の引き出しをあけ、中の物を引っ張り出す。
からっぽになった机を外へ運び出そうとする。私は突然の出来事に呆然とした。
いくら社長であっても、机の引き出しまで勝手に開けるとは、今で言うところのプライバシーの侵害か、
パワハラか。私はこのホテルの支配人だというのに、部下たちの目の前でなんの断りもなく、
私の机を外へ運び出すとはどういうことか。
小坂社長は、慶應義塾大学を出てロンドンに長年留学された秀才にとどまらず、ジェントルマンである
はずであった。それがまるで無法者のような振る舞いに及ぶ。私は猛烈な怒りを感じながらも、
部屋の外へ放り出される机の動きをなすこともなく眺めていた。私の怒りはおさまらなかった。
こんな理不尽な人物の下には居たくない。今日を限りに辞めてしまおうと思った。
支配人として座るべき椅子もない。社長はひと言も言わず出て行ってしまった。部下たちも語らず、気まずい空気が
朝の事務所に漂った。どうしようもなくこみ上げてくる憤りとサラリーマンの哀しさ。私は窓際に立って通りの
風景をうつろに眺めていた。
その時、小坂社長に呼ばれたのである。そして、社長室に入るや否やこう言った。
「君は、このホテルで一番サービスやマナーが良いんだよ。だから若い連中の手本になるようにと、支配人の
ポストにしたのだ。その君が奥まったところに机をデーンと置いて座っている。それでは何にもならないではないか。
野球で言うなら君はエースだ。ここ一番という勝負のときに、エースがベンチに引っ込んでいて試合に勝てると
思っているのか。常に第一線に立ちホテルの看板になりなさい。」
故なくして机が放り出されたのではなかった。確かに私は得意になり、第一線に立つのではなくデスクワークが
出来るポジションに安住しようとしていたのだった。さっきまで私は辞める決意だったのに、小坂社長の言葉を
聞いて思い直した。私の傲慢さの芽生えをすばやく見てとった小坂社長の偉大さを感じ、引き締まった気持ちで
仕事に当たろうと思ったのである。  (本文より抜粋)

****

私がフェヤーモントに入社したのが1978年なので、上記は私の入社の14年前の出来事と
いうことになる。
私の時代、小坂オーナーは70代半ばくらいか、、十分に元気で気が短かった。
私も弱冠22歳でキャプテンに任命いただき、タキシードで仕事をさせていただいたが
オーナーに何度怒られたことか、、、

本当に素晴らしい方に育てていただいたと思っている。

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ササピー
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