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コンプレックス 6


■コンプレックス6
 
そうだ、あの時代はチップというものが存在していた。
 
今ではホテルは、ほとんでの人にとって何ら珍しくも無く、
披露宴やら宴会やら会議やらで利用したり、宿泊したり、
レストランやバーの利用も何の躊躇もないと思う。
 
お昼に、
「ちょっと高いけど、たまにはホテルのコーヒーショップで食べよっか!」
みたいなノリだと思う。
 
昭和52年~54年くらいが、丁度『過渡期』だったのではないかと思われる。
 
つまり、それ以前は、一般庶民はあまりホテルという存在を利用する機会が無く、
非常に限られたものであり、ある階級の方々がメインとして利用していたわけである。
 
ある階級の方々のステータスであったとも言えるだろう。
 
ホテルのダイニング・ルームのディナータイムは、
外からのお客様がほとんどであった。
そして、そのほとんどは頻度の差こそあれ、皆リピーターであった。
 
どのゲストを誰が担当するかは、自然と、というか、必然と、というか決まってくる・・・
そんな感じであった。
 
自然と・・・という意味は、
ゲストがそのスタッフにサービスしてもらいたいという雰囲気が、
第三者から見ても感じられる、 そういう雰囲気であり、
必然と・・・というのは、
「ハッキリ」と、ゲストから指名されることもあれば、
その顧客の嗜好などを含め、「あのゲストは、笹川氏でないと・・・」
という流れになってくるわけである。
 
当時、ボクは沢山のゲストの名前と嗜好、そしてポイントをインプットしていた。
その中で、月に2回以上見えて、必ずチップをくれるゲストを2組抱えていた。
 
フェヤーモントでは、チップは「個人の裁量」ということで、
いただいた場合、申告をする必要も無ければ、全て個人でもらっていいという、まことにうれしい「ルール」があった。
今の時代では先ず考えられないルールである。
 
1組は、板橋で開業医をされている方で、
土曜日に必ず予約を入れてからご夫妻でお見えになった。
とても上品なご夫妻で、このご夫妻のサービスを担当出来ることだけで、
なんだか冥利を感じるような、そんなすてきなご夫妻であった。
 
メニューを持っていくと、いつもじっくりお二人で眺めているのであるが、
注文はいつもステーキディナーと、メドック(フランス・ボルドー地区の赤ワイン)の
フルボトルであった。
私は、これ以外の注文を受けた記憶が無い。
 
ステーキディナーの内容は、非常にシンプルなメニューで、
スモーク・サーモン
コンソメ・スープ
フィレ・ビーフ・ステーキ
サラダ
デザート
コーヒー
というものであった。
 
しかし、サービススタイルは凝ったものであり、
そのほとんどがゲリドン・サービスと言って、ゲストのテーブルの前で、
ワゴンを使用し、カットする、料理する、盛り付けをするなど・・・・
とても手間の掛かるものであった。
 
スモーク・サーモンは、ゲストの前でお皿に先ずレタスのジュリエンヌ(千切り)を
フワッと盛り付け、スモーク・サーモンを慎重に薄くカットして盛り付け、
その上に、スライスオニオン、ケーパー、カットレモン、パセリを添えて出来上がりである。
 
書いてみると、非常に単純な作業のように思えるが、
スモーク・サーモンは、薄く切らないと美味しく無いので、向こうが見えるくらいに薄く切る技術が必要となる。
途中で切れたりしたら、プロとして失格だし、情けない。
 
勿論、ボクも血の滲むような(?)練習をした。
グリップの力を完全に抜くのがコツである。
 
たしか、ステーキディナーの場合は、カットしたスモーク・サーモンは2枚という決まりがあり、
ア・ラ・カルト(グランド・メニューの一品料理)の注文の場合は、3枚であった。
 
しかし、そんなもん誰もチェックなんかしていないので、
「いつもの通り、1枚多く盛り付けておりま~す!」
なんてニコニコ言いながら、サービスしていた。
 
サラダもゲストの前で、ウッドのサラダボールに野菜を入れて、塩・コショー、
そしてドレッシングを掛けて、ウッドのサーバーでトスして盛り付ける。
 
デザートもワゴンで持っていき、チョイスしてもらう。
結構大変であった。
 
そして、最後のコーヒーを持って行ったときに、
そのご夫妻は、奥さんの場合もあれば、ご主人の場合もあったが、
非常に小さな封筒、そう名刺の半分くらいのサイズの封筒に入れたチップを
コーヒーをサービスしている私のタキシードのポケットにそっと入れてくれるのである。
 
他のスタッフへ分からないように、最大限の配慮をしてくれていたわけである。
金額はいつも5,000円であった。
今から45年も前の5,000円である。
大変にありがたかったし、うれしかった。
 
もう1組のゲストは、いつもシャリアピン・ステーキを注文された。
このシャリアピン・ステーキというのは、
帝国ホテルに宿泊していたロシアの声楽家シャリアピン氏が、
歯の治療をした後でかたいものが食べられなかったそうである。

当時、帝国ホテルのグリルのシェフをしていた筒井福男氏が、
それならばと、その時にアレンジして作ったステーキのことで、
ランプ肉を薄く叩きのばし、そこに玉ねぎの摩り下ろした汁を塗り、
フライパンで両面を焼き、そのステーキの上に、みじん切りにした玉ねぎを
あめ色になるまでよく炒めたものを、全面に塗ってのばすのである。

ソースは無くて、玉ねぎの甘みがお肉にマッチし、また柔らかく美味である。
 
筒井氏は、帝国ホテルからフェヤーモントに引き抜かれ、しばらくシェフをしていたが、
その後、ホテル・リッチに引き抜かれてしまった。
 
ボクがフェヤーモントに在籍していた時には、既にリッチに行かれた後であったが、
正統派のシャリアピンは、しっかりと残っていた。
 
フェヤーモントでは、サービススタッフがゲストの前でお肉を焼き、オニオンを炒め
(これは、あらかじめ十分に炒めてある)、盛り付けて提供していた。
 
火を使うゲリドン・サービスは、シャリアピン・ステーキの他に、
チキン・ソテー・ハンガリアン
クレープ・シュゼット
などがあったが、いずれもかなりの技術が必要なわけで、
それをゲストの前で作る事の出来るスタッフは限られていた。
 
そのゲストは帰るときにチップを手渡してくれた。
この方も、いつも5,000円であった。

https://note.com/rich_duck373/n/nd5bd818f05cd

 


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ササピー
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