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コンプレックス2
イタリア軒からフェヤーモントへ
ボクは、新潟の高校を卒業すると地元のイタリア軒というホテルに入社した。
本当は数年先にオープンが決まっていたホテル・オークラ新潟に行きたかったのであるが、何と面接で落ちてしまったのだ。
落ちたのでは仕方ない…地元で一番有名なホテルで洋食のコックになることを目指した。
小さい頃から料理をするのが何より好きであったボクは、それを仕事にしようとホテルを目指したのである。
小学校2年生に時にテレビの料理番組で、オタマ(レードル)を使って作るオムレツみたいなものをやっているのを見たボクは、早速自分でも挑戦してみた。なんとその時に作ったヘンテコなオムレツもどきは家族に好評であった。それに気をよくしてボクは更に料理に引き込まれていったような…そんな気がする。
ただ、当時は世の中にレストランと呼ばれるものは極僅かであり、一流ホテルのコックになる為には事は簡単では無かったのだ。
イタリア軒では、メイン厨房に入る前に宴会のサービスを1年間経験した。これが当時どこのホテルでも当たり前の流れみたいのものであった。その時お世話になった方で、K山さんという方がいた。
K山さんは、そのホテルに勤務しているわけでは無く、配膳会の責任者という立場だった。
彼は、ボクのことを「ささヤン」と呼び、随分可愛がってもらった。
また、ワインのことや料理のこと、サービスについても随分色んなことを教えてもらった。
彼は、明治学院大卒でサントリーに入社、ソムリエをやっていたらしい。なぜ、そんな素晴らしい仕事を辞めたのかは知らない。
人には色々と事情があるものだ。
実際にメイン厨房で働いてみると、料理を作るというより、食品工場で働いているようだった。
蒸気釜を使って、卵を一度に100個単位で茹でる。
蒸気釜はパワーがあるので、あっと言う間に火がとおる。
黄身がかなり半熟のうちに釜から出さないと、黄身の外側が黒くなってしまうのだ。
火のとおり具合は、卵を割って調べるしかない。
非常に微妙なので、少なくても3回は割って調べる。
その割った卵は捨てることが出来ない。
かといってまだ完成品ではないので、料理には使えない。
ではどうするか!?
それを茹でている人(つまりボク)が食べるしかないのだ。
ボクは茹で卵があまり好きでは無い。しかし、仕方ないので食べていた。気分が悪くなった。
なんとか良い方法はないかと考えに考え、ひらめいた!
ポケットに隠しておいて、洗い場のおばちゃんに内緒であげるのだ!
おばちゃんは、目を丸くして喜んだ。
しかし、もっと喜んだのは、このボクだった。
今でも茹で卵はあまり好きじゃない。
大きなずん胴でスープを作ったりもした。
小麦粉に溶かしたバターを交ぜて、
それをオーブンで焼き、
出来上がった白いルーを牛乳に溶かし込んで、
煮込んでいくとベシャメルソースが出来上がる。
これも蒸気釜でやるのだが、気が抜けない!
なにしろ蒸気のパワーがすごいので、釜の内側をまんべんなく「しゃもじのお化け」みたいなやつで、体力の続く限り掻き回すのだ!
途中でいっぷくは出来ない!いっぷくしたらあたってしまう(焦げてしまう)。
手首、肘、肩、腰、足の全ての感覚がおかしくなる寸前くらいのところで、トロ~リ美味しそうなベシャメルソースが出来上がる。
出来上がったソースは、さらしを使って二人掛かりで、絞るようにしてこしてようやく終わり。もうヘトヘトである。
ミートソースは、材料が複雑で多い。
玉葱やセロリやひき肉を、大量に炒めたあと、赤ワインの一升瓶をドクドクと入れる。
すると赤ワインのアルコールがジュワーと蒸気になって、ものすごい香りに体中が包まれる。
一度、二日酔いのときにこれで吐きそうになった。
そう、どの仕事も料理をしている感じではなかった。
勿論、そのさきにはもっと具体的な料理を作る場面も出てくるのであろうが・・・
ある日ボクは、K山さんに相談してみた。
「入社して1年経過し、メイン厨房に配置されたものの、
どうも自分にはサービスの方が向いていると思えてしまうのですが…」
すると彼は、
「そうだよ、ささヤン!君にはサービスが向いているんだ。
ようやくその事に自分で気付いたわけだ。
よっしゃ、でも、こんな田舎のホテルじゃダメだ!
一流になるには、東京のホテルに行かないと!」
ボクは「・・・?」って感じで、全然ピンとこなかった。
そんなボクにK山さんは不安を感じたのか、
ボクの今後の人生において、東京への旅立ちが、いかに重要で、いかに必要であるかということを、わざわざ、わが家を訪ね、
ボクの両親に、こんこんと説明してくれた。
そして、K山さんの紹介してくれたホテルに面接に出掛けることとなった。
新宿、九段、横浜の3つのホテルで面接してもらうことが出来た。
九段のホテルは、フェヤーモントホテル。
このホテルは、皇居のお掘「千鳥ケ淵」にある古いホテルだった。
面接をしてくれたのは、副社長と料飲部長であった。
副社長は開口一番
「君はメガネをかけているね。ウェイターにメガネは駄目だよ。外しても仕事出来る?」
と聞かれた。
なんでダメなのか、さっばり意味は理解出来なかったが、
「大丈夫です。目はたいして悪くないんです。」
と返答した。
本当は、結構悪かったのだが・・・。
なんだか厳しそうなホテルだな…とも思ったが、
このホテルにお世話になろうと決心した。
アバートは阿佐ヶ谷の閑静な住宅街に借りた。
阿佐ヶ谷から九段下まで東西線で一本だったからだ。
ボクの配属は、メインダイニングルーム。
そして、しばらくは朝食とランチのバスボーイをやるように!と言われた。
「ハイ!」と元気よく返事をしたものの、バスボーイなんて言葉を聞いたのは、その時が初めてだった。
心あたりに電話して聞いてみたが、誰も意味を知らなかった。
しかたないので、辞書で調べてみたところ、「ウェイターの助手」と書いてあった。
助手!?って、どういうこと?って思ったが、そういうことだった。
しばらくは見習だったのである。
ショックだった! ボクの新潟のホテルでの経験は、どこへいったんだ!?という気持ちだった。
おまけに制服が屈辱的であった。白いスタンドカラーの上着に黒のパンツ、そこに白の長いサロンを巻くのだ!
今でこそ、ウェイターが、黒や白のサロンを巻くのは普通であるが、
当時では、かなり珍しかった。
前から見ると、コックが帽子をとったみたいで、ボクはその制服を全く気に入っていなかった。
初出勤の日、6時30分に間に合うように、早目にアパートを出た。
東西線のホームで電車を待っていたが、全然電車が来ない!
時刻表を見ても、意味がよく理解出来ない!
「ヤバイ!」「このままでは遅刻してしまう!」
藁にもすがる思いで人に聞いた。
すると、
「あ~、まだ早い時間だから地下鉄は乗り入れていないんだよ。黄色の電車で中野まで行って、中野が東西線の始発駅だから、乗り換えればいいよ!」
とても親切に教えてもらった。
心臓がバクバクしたが、なんとか遅刻せずに行くことが出来た。
そして、そんな感じでスタートした東京での生活は、ショックの連続だった!
新潟弁を使っている気など、もうとう無いし、
最大限に自分の「喋り」に気をつけているつもりだったが、
「えっ、今なんて言ったの?」
「へぇ~、田舎では、そう言うんだ!」
と、よく言われた。
別にたいしたことを言ったわけでは無い。
果物の「苺」、
稲を育てる「たんぼ」、
野菜を育てる「畑」、
これは一例だが、
「 」の中のことばを
東京の人と同じ言い方で言えるようになるには、血の滲む努力が必要だった。
新潟弁は、意味が分からないような表現は、
あまり無いが、
イントネーションが、往々にして、標準語と違っていた。
無意識に言った「ことば」で笑われ、傷ついた。
どの単語や、表現に問題があるのか徹底的に、
自分で考え、
練習し、新潟を消す事に燃えた!
なぜなら、ホテルマンとして一流になりたかったからだ!
ことばにまつわる問題は、方言だけでは無かった。
フェヤーモントは、長期滞在の外国人客が、全体の40%前後をしめていた。フロントのおじさんたちは、皆、結構年配なのに、素晴らしく英語が上手だった。
後で知ったことだが、フランス語、イタリア語、スペイン語など、皆、かなりのレベルで対応していた。
中には、英語も完璧だが、それ以上にフランス語がうまい人もいた。
ある朝、ちょうど誰もいない時に、多分アメリカ人のご婦人が、早口で私に何かを頼んできた。
全く何を言いたいのか分からなかった。
その情景を、偶然スキマから見ていた洗い場のおばちゃんが出てきて、
流暢な英語でやりとりを始めた!
「OK!」
って、彼女(おばちゃん)は締め括り、
哺乳瓶にお湯を入れて渡していた!
このホテルは、ただごとでは無い!と思った。
洗い場のおばちゃんですら、完璧な英語を使っている!
言葉の問題で、私の頭は混乱しっぱなしだった。
なぜ、洗い場のおばちゃんが、あんなに流暢な英語を喋るのか?
疑問に思った私は、本人に聞いてみた。
彼女は、若いころからずっと、外国人のお宅でハウスキーピングの仕事をしていたとのこと。
なるほど、必要に迫られて、覚えたのだろうが、それにしても上手かった。
彼女は大変なおしゃべりなおばちゃんで、毎日手も口もフル稼働していた。
同様に、英語の喋りもとても早く、まさに機関銃のように「ペラペ~ラ」という感じだった。
このおばちゃんから、アメリカ人が好んで食べるという朝食メニューを教わった。
オートミールに蜂蜜とホットミルクを入れて食べるのだ。
オートミールという食べ物も、フェヤーモントの朝食で初めてみた食べ物だった。
外国人でコーンフレークスとこのオートミールを頼む人がやたらと多かったが、オートミールは、その見た目からして、ボクは、あまり興味を持てない食べ物だった。
しかし、だまされたと思って、そのやり方で食べてみたら、これがいける!! はまってしまった。
世の中には、色々と美味しいものや、美味しい食べ方があるんだと思った。
そしてボクは、毎日、毎日、オーダーを取ることも出来ず、ひたすら「下げ」と「セット」と「水の補充」に明け暮れた。
3ヶ月くらい経ったある日、キャプテンに呼ばれ「明日からウエイターコートで仕事をするように!」と言われた。
そして、リネン室でコートと蝶タイをもらった。
その時のうれしさは、もう格別であった。世の中がバラ色に見えた。
しかし、世の中が甘くないことを、そのあとタップリと味わうことともなった。
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