コンプレックス 1
あらすじ
「ボク」は、小学校時代父親の転勤で3回も引っ越しを経験する。
入学式で出会った彼等の洗練された姿に圧倒された。髪形、話し方、笑い方、しぐさ…すべてにコンプレックスを感じた。
そんな中ボクは、知らないことでも知っているかのように振る舞い、早くうまくなじむように精一杯の努力をするのであった。
その後、子どもの頃から料理を作るのが好きだったボクは、それを仕事にしようと、新潟の老舗「ホテル・イタリア軒」に就職する。
その後、皇居のお堀「千鳥ヶ淵」にあるフェヤーモントホテルにお世話になることになった。そこで味わった屈辱は、中学に上がった時に感じた屈辱よりも更に大きく、切なかった!
■コンプレックスとは・・・
ホテルをテーマにしたドラマがヒットした時代がありました。
その影響で、ホテルマン(現在ではホテルマン・ホテルウーマンという呼び方よりもホテリエという表現をするようですが、どうも私は馴染めません)を目指した人も少なく無いと思います。
しかし、現実のホテルの仕事はどのようなものなのかというものを赤裸々に描いたものは少ないように思います。
それらを赤裸々にしたところで、面白味が無いからかも知れません。私は、自分が歩んで来た道を、出来るだけ分かりやすく表現したいと思いました。この作品を読んでいただいた方がホテルに対して興味を持っていただければ嬉しいです。
どこまで続くか分かりませんが、書きながらアップしたいと思います。
皆さんからの温かいコメントに感謝しています。
筆者
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ボクの出身地は新潟市である。
しかし、ずっと新潟市で生活していたわけではない。
父が国鉄職員だった為、なんとボクは、小学校を三回も変わった。
この父は、二十八歳の時に助役になり、「超」早い出世だった。
しかし、毎年受けていた駅長試験は、いつも面接で落とされ腐っていた。
一説によれば、父は頭を下げるのが嫌いで、
えらそうに理路整然と面接官に対応するのでダメだったようである(母から聞いた)。
それでも最後は、二つの駅のマスターとして、金線が2本入った帽子を被った親父はカッコ良かったし、私の「誇り」であり、「自慢」であった。
父は、毎朝NHKのニュースの開始に合わせて懐中時計をピッタリと秒まで合わせ、とにかく列車を時間通りに送り出すことにこだわっており(当たり前だが)、ボクは、せっかくなんとかその電車に乗ろうと走ってきたのに、閉めたドアを開けずOKサインの旗を何の迷いも無く振って発車させた、そんな現場を何度か見たことがある。
小学時代三回移動したところは、新潟県内ではあるのだが、全て恐ろしく田舎だった。
今は、日本全国どこに行っても、コンビニがあり、ファミレスがあり、
規模はともかくスーパーがあり、ラーメン屋があり、レンタルビデオ屋まである。
都会も地方もあまり差が無くなってきているが、
ボクが過ごした小学時代は、都市部と過疎地の、その差は歴然たるものがあった。
小学高学年の時代を過ごした「中郷村」は、いま思い出しても、本物の田舎だった。
近所に本屋と八百屋があったが、その八百屋で、現金で買い物する客などおらず、皆、帳面につけておいてもらい、月末に締めて払うのである。
なんか、今になって思えば、「控え」をくれるわけでも無く、
随分とあやしいシステムであった。
食堂も一軒記憶にあるが、メニューはラーメンしか無かったような気がする。厳密に言うと「中華そば」とよんでいたような気もする。
まあ、当時の記憶の中ではうまかった。しかし、あまり比較材料も無かった。
年に数回、多分親父のボーナスが出た後だと思うが、
母が、我々ワルガキを引き連れ、高田市(現在の上越市)の大和デパートに連れて行ってくれた。我々ワルガキとは、ボクと三歳上の兄のことである。
ボクは当時、高田が大都会だと思っていた。
とりあえず、高田には沢山の人がいて、とても賑わっていた。
買い物の後で、食事に入った食堂は、あれもこれも食べたいと思うほどメニューが豊富だった。
この高田への「オデカケ」は、とてもとても楽しみだった。
その後、ボクが中学にあがる時に、父が新潟市に転勤になった。
三つ上の兄は、この引っ越しに際し、高校の受験先を高田高校から
新潟県で一番学力の高い「新潟高校」に切り替えた。
そして何と凄いことに受かってしまったのだ。
これは中郷中学の歴史に残る快挙だったようで、卒業証書を手渡される時の、本人では無く校長先生の嬉しそうな顔と兄にだけ添えられた「ありがとう!」というコメントは、その後我が家の夕食の話題として何度もあがったものであった。
ボクは、高田よりもはるかに都会(当たり前だが)である新潟市の様子にドギマギし、しばらくは動揺しっぱなしであった。
ドキドキの入学式、初めて会ったクラスの皆を見て、
「なんて洗練されているんだ!」
と更に動揺は増した。
彼等の髪形、話し方、しぐさ、笑い方すら都会的だった。
そして彼等の話の内容の1/4位は、よく理解出来なかった。
多分、文化が違い過ぎて、知らない単語ばかりだったのだと思う。
ボクは、中郷で使っていた方言を隠すかのように、妙ちくりんな標準語で対応していたが、
「どこの小学校だったの?」
と聞かれるのだけは、死ぬほど嫌で、そして恐かった。
ボクが入学した中学は「白新中学校」、漫画家の水島新司氏の出身校でもある。白新中学へは、その校区である2つの小学校から集まって来たわけであるが、ボクはいずれの小学校でもあるわけが無い・・・中郷小学校卒業である。そんなこと正直に答えたところで話はうまく展開するわけなどあり得ない。
なんせ、中郷時代、クラスの中で、インスタントコーヒーを飲んだことが無い!という輩がゴロゴロしていた。多分、バスや電車に乗ったことないやつも、同じ位の割合でいたのだと思う。
なんだ、こいつら、コーヒーも飲んだこと無いって、どうなってんだ!と驚いたものだが、新潟に来てからは、こっちが驚かれないように、知らないことでも、知ったかぶりで通す必要があった。
あるとき、クラスの女の子に、
「笹川君は、ブレザー持ってる?」と聞かれた。
その質問の意味というか、「ブレザー」が何なのかが、当時のボクには分からなかった。それでも「いや、無い!」と答えておいた。
後から、差し障りの無い友達に、
「ブレザーって、何?」って聞くと、
ブレザーとは、お洒落なジャケットのことだった。
そんなもん、持ってるわけ無い・・・
しかし、彼等は皆そういったフォーマル系を、
ガキのくせしてほとんどのやつらが持っていたのだ。
ここらへんが、田舎と都会の違いか!とコンプレックスを感じるわけである。
そんなボクであったが結構もてたような気もする。
ものすごくもてたのでは無くて、結構まあまあもてた。
マジョリティーに支持されていたのとは違う
ある特定された人たちに人気があったようだ。
まあ、分かりやすく言えば、
バレンタインデーに意外な人から3個くらいチョコレートをもらう、その程度ある。
中学一年生のとき、休み時間に中庭のベンチでたたずんでいると、
同じクラスのA部まりこ(あと一文字で○ベマリアだったのに…)さんが、ボクの隣に座った。
彼女は、とても美人だったが、すこぶる頭が良いわけでも無く、
また、リーダーシップを取るようなタイプでもなかったので
どちらかと言えば目立たない存在であった。
その彼女が目的を持ってやってきたみたいな感じだった。
彼女は、ボクに顔を近づけこう言った。
『笹川くんて、いいにおいがする。何かつけてるの?』
『いや、べつに…』
『ほんと…なんか、笹川くんのイメージにピッタリのいいにおいだよ。ほんと、いいにおい!』
『あ、ありがとう。』
そして、ボクは彼女の肩に手をまわし、熱いキスをした。
そんなわけない!それは今妄想してみただけである。
でも、そして、ボクは…の前までは事実である。
今でもリアルに覚えている
とても素敵な青春の1ページである。
親戚にグルメでオシャレな素敵な叔母がいた。
彼女は、どういうわけかボクを大層可愛がってくれた。
これは、ボクのルックスが理由だと思う(?)。
彼女は、新潟で一番美味しいと言われる洋食のキッチン○○や、
中華の○○楼に、ボクを連れて行ってくれた。
そして、憧れのブレザーさえも買ってくれた。
店での注文も彼女がしてくれた。
ステーキをナイフとフォークで食べたのは、これが初めてだった。
本格的な中華を食べたのも初めてだった。
全てがカルチャーショックだった。
なんて美味しいんだ!
今でもその時の感動が忘れられない!
その感動がボクを「食」の世界へ導いたのかも知れない。
時が経ち、ボクは東京のホテルに入社した。
そこで感じた屈辱は、中学に上がった時に感じた屈辱よりも更に大きく、そして切なかった!
※この物語は、ノンフィクションです。