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塗料メーカーで働く 第十二話 ユーザー訪問

 2月15日(水)午前9時40分頃に JR東海道線の大船駅の改札口を出た川緑は 営業の北野係長と松頭産業社の菊川課長と合流した。

北野係長は やや背が高く 細身で面長 色白の顔に眼鏡を掛けていて なまりのない話し方をした。

 菊川課長は やや背が高く ふっくらした体型 パンチパーマ風の髪型に日焼けした顔に色の付いた眼鏡を掛けていて ちょっと怖い人に思われそうな外見だったが 人当たりのよい表情で 関西弁が入ったやわらかい話し方をした。

 この日に彼等は大船駅からタクシーに乗り 大手の電線メーカーの住倉電工社を訪問した。

 守衛所で記帳すると 彼等は技術棟の建物へ入り 菊川課長は 受付の女性に 「私 松頭産業社の菊川と申します。 光ファイバー開発担当の石坂主任研究員様にお約束があります。」と言った。

 彼の人当たりのよさは抜群で 受付の女性は 彼の名前と彼が喫煙することを覚えていて 笑顔で受け答えすると 灰皿をもって商談室へと案内した。

 この日の訪問の目的は 住倉電工社の光ファイバー開発担当者へのUVカラーインク試作品の紹介だった。

 川緑は 試作インクの報告書を準備していて その中に インクの液特性に関するデータと インクの硬化物特性に関するデータをまとめていた。 

 インクの液特性に関わるデータには 粘度や比重や粒度分布や硬化性等の評価結果があった。 

 インクの硬化性は ゲル分率と呼ばれる数値データで示され それは インクをUV硬化させた時のゲル化(固化)の割合を示したものだった。 

 ゲル分率の評価は 硬化したインク薄膜を 所定の有機溶剤に浸漬し煮沸し 薄膜中の未硬化成分を除いた残分の重量比率を求めるものだった。

 インクの硬化物特性に関わるデータには 機械的強度や弾性率の温度依存性やガラス転移点や剥離性等の評価結果があった。                                      

 機械的強度のデータは 先述の薄膜を短冊状に裁断したものを作製し これを引っ張り試験機に掛けて測定した 弾性率と伸び率と破断強度だった。 

 弾性率の温度依存性とガラス転移点のデータは 先に同じ短冊状の試験サンプルを用い 動的粘弾性測定装置を用いて測定したものだった。

 UVカラーインクの機能には 硬化後にインク表面に剥離性を有することが求められていた。   

 インクの剥離性は 光ケーブルを施工する時の個々の光ファイバーの末端部分を別の光ファイバーと結線する時に求められる機能であった。 

 光ファイバーの結線作業は 4芯や8芯毎に樹脂でテープ状に加工してある光ファイバーの末端部分の樹脂を剥がし カラーリングされている光ファイバー同士を突合せ 末端部分をレーザー照射により溶着し結合する作業だった。

 このような結線工程では 作業性の向上のためにテープ状の樹脂を容易に剥がすことが必要となり そのためにインクの表面に剥離性の機能が求められていた。   

 報告書の中身を確認していると 商談室の戸が開き 光ファイバー開発担当の石坂主任研究員が入ってきた。

 初対面の川緑は 椅子から立ち上がると名刺を取り出し 「お世話になります。技術の川緑です。宜しくお願いします。」と言った。

 石坂主任研究員は30歳代中頃 中背ふっくら体型で 椅子に座ると年齢以上に貫禄があった。

 川緑は 用意した報告書を研究員へ手渡し 試作インクの性能について報告を進め 最後に 「ぜひ 試作インクのご評価をお願いします。」と言った。

 椅子に深くすわり 腹の上に腕を組んで目をつぶり考え込んでいた研究員は 「御社のUVカラーインクの設計思想を教えてください。」と言った。 

 この質問は 川緑を緊張させるもので 生半可な回答は許されないと思わせるものだった。

 回答如何によっては 研究員は試作インクを評価しない可能性があると感じられたからだった。

 以前に 川緑は 他の電線メーカーの技術者から光ファイバーの性能評価には多額の費用がかかると聞いていた。             

 UVカラーインクの初期性能評価は 4色にカラーリングした光ファイバーのそれぞれを キロメートル単位の長さで作製し これらを束ねてテープ状に加工して行われた。

 テープ状に加工された光ファイバーは ボビンと呼ばれる大きな糸巻きに巻き取った状態で 光の伝送特性等の評価が行われ その試験に数千万円の費用がかかると聞いていた。   

 更に テープ状の光ファイバーを束ねて 光ケーブルに加工して行う性能評価には 億円単位の費用がかかるとも聞いていた。 

 つまり UVカラーインク試作品を評価してもらうには 石坂主任研究員に 確かに費用や人手や時間をかけてもやる価値があると納得してもらうことが必要だった。

 今のこの局面は UVカラーインク評価のGO/NOの決定権を持つ人が 川緑にインク試作品の設計思想を聞いているという状況だった。

 川緑の紹介したUVカラーインク試作品は 森田課長の設計によるもので その設計の考え方は 彼から聞かされていた。

 川緑は 「今回 ご紹介のUVカラーインクは 光ファイバー芯線の光の伝送特性に影響しないように設計しています。 そのために 低粘度タイプで硬化物の弾性率を低く設計していて また 着色顔料には 粒子径の小さなものを用いています。」と答えた。

 主任研究員は 暫く腕を組んでややあごを引き話を聞いていたが 「青色のUVカラーインクを1リットル 今週の金曜日までに送ってください。」と言った。

 住倉電工社を出た後に 川緑は 以前に聞いた森田課長の言葉を思い出していた。

 その言葉は 「設計思想が正しければ いつかはいいものが出来るが それが正しくなければ いつまで経ってもいいものはできない。」 というものだった。

 川緑は 石坂主任研究員のUVカラーインクの設計思想の質問は 恐らく 彼もまたそのような考えを持っているからだろうと思った。

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