肺移植のこと
ご挨拶が少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。みなさま、良いお正月を過ごされましたでしょうか?今、現在、闘病中の方やそのご家族の方たちにとっては良いお正月もなにもなかったかもしれませんが。
肺移植のこと
今回は肺移植のことを書かせてもらいますね。
息子が移植の慢性GVHDである閉塞性細気管支炎になったのは、臍帯血移植から1年と半年経った頃でした。
治療法がなく、最終的に肺移植しか助かる方法はないって言われた時からそのことはずっと頭のどこかで考えてはいました。
肺移植のことが現実味を帯びて来たのは、気胸が進み2度目のドレナージをやってからのことでした。両方の肺の気胸がひどくなり癒着術も2回やったけどなかなか肺の状態が良くならなくて。最初のうちはドレナージとかしなくても安静にしていたら自然に治っていたのがなかなか治らなくなってきて。それだけ肺がダメになっていたんでしょうね。肺の働きが悪いってことは息が出来ないってことなので、それは生死に関わってきます。
京都で出来る…かな?
呼吸器外科の先生が京都の大学病院の肺移植の専門の先生を知っていたので息子のカルテやデータを送ると「出来るよ」って言っていただけたそうです。その先生は日本の肺移植の草分け的な存在で、今でも肺移植をたくさん手がけておられます。
ちょうどその頃、世界で初めて血液型が不適合での肺移植が成功したとかのニュースも流れていて、その先生がやってくれるなら大丈夫やろうって安心していたことでした。
でも、そこに3年の壁が立ちはだかったんですね。担当の先生からは向こうの病院になんとか早く移植をすることが出来ないかと催促の連絡をなん度もしてもらい、私たちは移植が出来る日を心待ちにしていました。
肺移植って?
移植といっても骨髄移植とは全く違うわけで、今回は大きな手術をすることになります。入院期間はどれぐらいだろうとか、痛みはどうなんだろうとか、気になることがたくさんありました。
なのでとりあえず肺移植をやった方に話を聞きたいと思って、あらゆる伝手を使って息子と同じ白血病で閉塞性細気管支炎を発症して肺移植をされた方のお母さんと繋がることが出来ました。
その方の子どもさんは岡山大学の附属病院でご両親がドナーになって移植を受けたって言われてました。
肺移植のドナーの入院期間は2週間ぐらい、その方は3週間で退院したって言われてました。ものすごく痛かったって。そのお家は娘さんもいるんですけど、ドナーにしなくて良かったって。自分は母親だから我慢出来るけど、こんな痛みを娘に負わせなくて良かったって。
肺移植を受けた患者の方はだいたい3ヶ月ぐらいで日常生活が送れるぐらいになって退院出来るそうです。
ただ、そこの子どもさんの移植をされた先生は外国に行ってしまったので、今は日本にいないと。すごく良い先生なので、あの先生がいたら良かったのにってすごく残念そうに言われてました。
お話を聞いた後、夫にその話をすると「いや、外国ってそれはないろ。京都の先生がやってくれるって言ってるし」って言ってあまり相手にしてくれません。でも確かに外国で移植っていうのは聞いただけでもハードルが高くって。その時はまだ息子の状態がそこまで悪くないと思っていたので、私もそれ以上は調べもせず…。
…移植が出来ない?
でもそれからしばらくして病院から「京都での移植は難しい」って言われました。なおもう一度京都への問い合わせをしてみるとも。
それからそのお母さんに電話して、他のお母さんの連絡先も聞きました。電話すると、嫌がることもなくすごくあっさりとお話ししてくれて「やってくれそうな施設、大学病院に行って、先生と直接話したほうが絶対良い」って言われました。
いろんな病院、施設を調べる時に外国に行った先生のことも一緒に調べました。その先生は姫路第一病院でセカンドオピニオンをされている大藤先生っていうことが分かりました。
次の日に病院に行くと、京都の病院から「今、現在の状態を見ると3年を待って移植をしたとしても体力的にも持たないと思います。それに移植の時には免疫抑制剤を使うから、その時に白血病が再発するおそれがあります。そのことを考えても移植は難しいと思います」っていうお返事が来ていました。
他の施設ではやってもらえないかとかいろいろ先生に相談したら一応当たってみますって言ってくれて。
それから2ヶ月ぶりに息子に会いに病室へ行くと、息子は痩せ細っていて、起き上がるのも難しいかんじで。あまりにも弱っていたので見た瞬間、言葉を失ってしまいました。息子は先生からの話を聞いた時に「そうか。分かった」ってあっさりと言ってました。
その夜、息子と電話で話した時に「なんとか早うやってくれるところないろうか」って言ってましたが外国の先生のお話は出来ませんでした。もしまた今回のように「出来ません」って言われた時の息子の絶望を考えると…。
え?カタール?
次の日、朝一番に姫路第一病院に電話して「大藤先生にセカンドオピニオンをお願いしたいです。もう1〜2週間って言われてます」って言うとすぐ連絡してくれて、その日の夕方、オンラインでお会いすることが出来ました。
その時に「京都では出来ないって言われてます。どこか他の施設はないですか?」ってお聞きすると「京都が出来ないって言ったら日本では無理でしょう」って言われて。「あー。やっぱり無理かぁ」って落ち込んでたら「それならカタールに来たらいい」って言ってくれて。「え?そんなん無理やろ」って顔に出ていたと思います。すると先生が「無理と思ってますよね。でも最初から無理なことをしようとしてるんです。それを無理やりやるんです」って言われて。…はっとしました。確かに今まで息子は無理って言われて来た道をずっと通って来てたなと。
最近でも日本から肺移植を受けるためにカタールへ来られた人がいるとも言われていました。もちろん全員が全員助かるわけではないけど、でも今まで移植が出来ないって言われてた人がすごく前向きになってリハビリもするようになって、亡くなる直前まですごく元気に過ごしていたとかも。それはそうですよね。今まで生きることは出来ないって言われてたんだから。
そのあと具体的な話も少しして。とりあえず退院して家でしっかりご飯を食べさせて、リハビリをして移植に耐えられる身体にするとか、リハビリも今、体力が無いなら無いなりに出来ることを少しずつ負荷をかけていってやればいいとか。
飛行機で行くって言っても成田空港までどうやって行くのかは「自衛隊機でくればいい。そこからはそういった患者専門で運ぶ国際線の飛行機もあるから」って言われました。
ただ残念ながら息子がカタールに行くことはありませんでした。その日の夜に具合が悪くなって意識を失って5日後ぐらいには帰らぬ人となってしまったから。でも外国で移植が出来るかもっていう話だけはほんの一瞬意識を取り戻した時に伝えることが出来ました。それだけが唯一の救いですね。それでもちゃんと意識のあるうちに話せていたら良かったのにとは思ってしまいます。
第二・第三の方法
息子が亡くなったことを姫路第一病院の担当の看護師さんにお伝えした時に「先生は向こうの病院に掛け合って手術代は要らないように話をしてくれてたみたいです。それからどうやってカタールに来るのかとか飛行機の気圧とかを考えるともう少し体力がいるなとかいろいろ考えていたようで。お役に立てなくて申し訳ありませんでした」って言われました。その時に「肺移植を考えている人たちで日本ではどうしようもないって言われた方たちの第二、第三の選択肢として話が出るようにこれからも努力していきたいと思います」とも。
息子は間に合いませんでしたけど、将来の肺移植を望んでいる人たちの選択肢の一つに大藤先生の名前が上がるようになってもらいたいと切に願います。
新年早々、なかなか重くて長い話になってしまいました。でも、息子をずっと見守って来た私の中で唯一後悔が残っている話なので絶対全部伝えたいと思い書かせて頂きました。みなさま、今年もよろしくお願い致します。