ハプロ移植を受けて
2月の中旬に夫が末梢血幹細胞採取のために入院してから1ヶ月後に息子はハプロ移植のために岡山の病院に転院しました。
今の移植の現状
岡山でハプロ移植を受ける前に白血病細胞を出来るだけ減らすように抗がん剤治療を高知の病院で受けました。
それから岡山の病院で前処置(抗がん剤大量投与と放射線治療)で病気にかかった血液細胞を破壊して、そのあと健康な造血幹細胞を点滴で移植することになります。
知り合いの薬剤師さんが、今は地元の病院でギリギリまで抗がん剤治療を受けてから専門の病院で移植を受けて、地元の病院に戻って経過を見るっていうのが主流になってきてますって言われてました。
BCR(バイオクリーンルーム)
岡山の病院では移植のための病棟があり、その病棟に入院してる患者さんは当たり前のことですけどみなさん移植を受けられてる方で。今まで入院した病院では移植の時はICUに移ったり一般病棟にある1室を無菌室にした部屋に移ったりしていたので、患者本人が部屋から出ることは一切禁止されていました。でもその病棟だと冷蔵庫に物を取りに行ったり、少し元気になると病棟の中を歩いたりと拘束される範囲が少しだけ緩くなりました。病室には家族は2人までしか入れませんでしたが、制限時間があるわけではなく、一度病院に行くと病棟に入る前の消毒とかをしっかりしていれば何時間居ても構わないということでした。
ただ部屋があまりよろしくなくて。ベッドと荷物を入れるロッカーはありましたけど、ベッドの横にベッドと同じぐらいのスペース(看護師さんが点滴したり、主治医が部屋に来て診察するため)があって、同じ部屋にトイレは剥き出しでその横にすごくお粗末な洗面台が一つ。真っ白な壁で広い窓はあるけどその向こうには廊下があって部屋に入れないお見舞いの人がそこを通って行くから部屋の中が丸見えになるし。トイレも剥き出しなので、トイレに座っていてもお構いなしです。なので一日中ブラインドを閉めていました。そのブラインドの色も白。どこを見ても白い狭い空間の中、やることなく一日中そこにいることは本人にとって地獄のようなものだったと思います。
入院した時は家族で一緒に行きましたけど、部屋に入った途端「え?トイレ?そのまま?」って言ってしまいました。
副作用いろいろ
最初、元気な時は病院に行ってもゲームをしたり、一緒にテレビを見たりしていました。それから抗がん剤大量投与がすぐ始まって、少しずつ弱っていって。
40℃越えの高熱が何日も続いたり、ひどい口内炎が出来てご飯が食べられなくなって。今回も下痢が続いたのでオムツを使って。
朝、バスで岡山に向かっている時に主治医の先生から「前の時に出血性膀胱炎になったのでそうなる前に尿管を入れようっていう話になったんですが、本人さんがどうしても嫌って言って困ってます」って電話がかかって来て、病院に着いて本人を説得しようとしたけど大泣きで。なんとか納得させて尿管は入れました。
あと「吐血して先生に剥離性食道炎って言われた」っていう時もあって、その時は経鼻胃管を入れていました。
メンタル崩壊…
いろんな副作用が起こるなか、なんとか平静を装っていた息子も、やっぱりそれを続けていくのは難しく、どんどん崩れて行きました。1日おきに通っていた病院でも、私たちが着くなり「なんで遅いがよ〜。もっと早う来て〜」って言って泣いたり、帰る時には「なんでもう帰るが〜?もっとおってよ。泊まって行って〜」って言って泣いて。20歳になった息子に大泣きされてちょっとびっくりしました。まるで5歳児に戻ったよう。一緒に行っていた娘は「早う行っちゃりや。泣きゆうで」ってドン引きな様子…。
でもその頃のことをあとから息子に聞くと「あの時のこと、よう覚えてないがよね」って言ってました。きっと精神的にもめちゃめちゃ追い込まれていたんだと思います。
YouTube禁止
その時にはもうYouTubeの配信を始めていたので、時々それを更新してたのですが、一応、なんの断りもなくっていうのもいけないと思って、その時の主治医の先生には「こんなのやってるんですけど…」ってお話ししてました。しばらくしてから病院の事務長さんが部屋に来て「YouTubeの配信とかされたら困ります」って言われて。息子のYouTubeのことはまた詳しく別で書きますけど、要するにどこの病院かが分かるのは困る、よそに治療法が分かるとだめだから、っていう内容でした。
夫が「これだけは許してください。この子の生きがいだから」って言っていましたけど、やはり許されることはありませんでした。
やれることが少ない中、唯一出来ること、楽しみにしていたことを取り上げられて、本当にしんどかったと思います。
お見舞いに
そうやってしんどい思いをして入院生活を送るなかで、息子にとって少しだけ嬉しいことがありました。大学でお世話になったチューターの先生と支援課の先生たちがお見舞いに来てくれたのです。たった半年しか通わなかったものの、先生たちはすごく心配してくれてて「岡山の病院に入院してます」っていうお話をしたら「ぜひ、お見舞いに行かせてください」って言ってくれて。閉ざされた空間で、来てくれるのは2日に一回家族だけ。気持ちも落ち込む一方だったと思います。でも、それがわざわざ病院まで来てくれて。先生たちからすれば何十人、何百人の中の1人なわけで、息子はそんなに目立つ生徒ではなかったと思うのにそれを気にかけてくれて。やっぱりすごく嬉しそうでした。
先生たちが来てくれる前に、私は大学の方に手続きに行ったのですが、その時に住んでいたアパートの近くをバスで通った時「この前までここに住んでたやん。あんなに元気やったのに」って思うと泣きそうになって。私ですらこんなふうに思ったぐらいなので、息子本人の落ち込みは半端なかっただろうなと思います。
そうやってしんどい思い、大変な思いをした甲斐もあって、移植した造血幹細胞がしっかりと生着して目立ったGVHDも見られなかったため、6月には高知の病院に戻ることが出来ました。移植からわずか2ヶ月足らずのことでした。