望月万寿

気づくと「なんでこうなったんやー!!」と思いつつ 人生の黄金期(60-75)を迎えたものの介護でさらに数年を費やし、 いまさらながら自分のため残りの人生を楽しんで生きていくつもりです。

望月万寿

気づくと「なんでこうなったんやー!!」と思いつつ 人生の黄金期(60-75)を迎えたものの介護でさらに数年を費やし、 いまさらながら自分のため残りの人生を楽しんで生きていくつもりです。

最近の記事

昭和の小学校5お世話係1

小学一年の時、 クラスの男子に体を小さくすぐにめそめそ泣きだし、 すぐにお漏らしをする子がいた。 当時の机は二人机で一つの机に二人座るようになっていた。 そして、席は必ず男子と女子で座ることも決まっていた。 その席替えの時、 女子がみんなその子の隣に座るのは嫌だと言って 大騒ぎになった。 あまりにもみんなが必死に嫌がって大声を出して騒ぐものだから、 先生はいきなり離れて立っていた私を見つけて 腕をつかんでひっぱり 「はい、望月さんに決定これできまり」 と言い、私をその子の隣

    • 昭和の小学校4

      兄の同級生には指とか欠損している子が何人もいたそうだ。 そのころのうちの地域では 家で小さな工場を営んでいる家庭が多く、 今と違い安全装置もほとんどない機械や道具などで 家の手伝い中や親のいない時に工場に入り込んで 事故に会う子も多かったらしい。 私のクラスには 巨漢の子や(みんなの体重が20キロ台のなか一人だけ40キロ超えていた) お風呂にずっと入らない子や、 よくお漏らしする子はいた。 お風呂に入らない子はそばにいるとすごく臭うばかりか 鉛筆とか、消しゴムも持っていな

      • 昭和の小学校3

        兄が小学校に入った時、生活保護とか始まっていなかったので トタンを組んだだけの家に住み、 電線柱から電線をつなぎ裸電球をつけている家とか 結構当たり前にあったそうだ。 その他、家族5人くらいがリヤカーに荷物一式積んで 生活している家族とか (その布団の間から、小さい子供が顔を出したりしていたそうだ) 私の記憶にあるのは、当時私の町内には結構子供がごろごろしていたのに みんな団地へ引っ越すことになったと言って 次々にいなくなってしまった事だ 遊んでくれた小さなお兄ちゃんお姉

        • 昭和の小学校2

          兄が小学校へ入学したときは、まだ給食はなかった。 「お腹空いていないから遊んでくる」と 給食時間外で過ごす子もそれなりに多かった。 また、教科書も自費で、古いくたびれた教科書を持ってくる子や、 毎日忘れたと言って隣の子に見せてもらう子も多かったらしい。 私が小学校一年の時 先生が「今度から、教科書の無料配布の始まったから、 皆さん家から判子持って来てください」と言われた。 印鑑を持っていくと、名簿に印鑑を押してから返してくれるのだが、 結構いい加減な先生で、同じ苗字の子なら