あわしま・かわたれ日記(8) 「8月15日」
寅吉(トラキチ)、私の大好きな祖父である。祖父は優しくてかっこ良かった。戦争が終わって帰って来た時の話がじいちゃんの兄弟の中で話題に上がっていたことがあった。
じいちゃんの妹ヒデ子おばちゃんと兄妹の末っ子久子おばちゃんが笑いながら話した。
「アニキは戦争が終わってすぐには帰ってこなかったんだよ。」
ヒデ子おばちゃんは言った。
「そうなの。だから私ら家族も島の人もみんなアニキが死んだと思っていたんだよ。」
続けて久子おばちゃんが言った。
「えっ!?死んだと思ってたの?」
「そうなんだよ。」
二人とも口をそろえて笑いながら言った。
「私たちが畑で作業していると、島の人が大声で
『お〜い!!お前のところのアンニャ(長男)が帰って来たぞぉ!!』
叫んで走って来たんだよ。」
ヒデ子おばちゃんが興奮して話をする。
「私らは死んだと思っていたからもうびっくりさぁ。作業を中断して、もう全速力で家に向かったんだよ。」
久子おばちゃんも興奮気味だ。
「それでね家に走って入っていたら、アニキが茶の間でふんどし姿であぐらかいてタバコを吸っているんだよ。」
ヒデコおばちゃんと久子おばちゃんは目を輝かせて言った。
「アニキ〜!!!」
って叫んだら一言。
「そんなに慌ててどうした?」
アニキはそう言って、タバコを吸ったんだよ。
「えっ!?なんかめちゃめちゃかっこいいんだけど。」
私の知らないじいちゃんがいた。
「どうしてふんどし姿だったの?」
私が質問するとヒデ子おばちゃんが教えてくれた。
「満州から新潟に帰る途中で物を全部取られたらしいだんよ。物は全部なくなったけど、命があればね。」
「うん。」
そんな祖父は私にいろいろなことを教えてくれた。その中でも悲惨な戦争体験の話が特に印象に残っている。毎年8月15日の終戦記念日になると
「マサヨシ、こっちにおいで。」
と、私を呼び出し戦争の話をしてくれる。祖父が話し出すと、私は自然と正座になる。誰かに言われたわけではない。祖父という存在は幼い私にとって、とても大きな存在なのだ。
満州に行っていた祖父は命からがら生き延びた。台所でトントンと母の包丁の音がする中、茶の間で祖父から生々しい戦争の話を聞く。
「機関銃の弾が雨のように降り注いだ。爆音の中で自分はもうだめだと思った。周りを見ると、たくさんの仲間が私の側で…」
私は息が吸えなくなるほど悲しく、苦しくなる。そして最後に
「戦争は絶対にしてはなんねぇ。(戦争は絶対にしてはいけない)」
と祖父は悲しげに言う。
祖父が80歳になろうとする8月の夏休み。高校生の私に祖父が穏やかな声で話してくれた。
「ようやく爆弾の音が聞こえなくなったんだ。寝ていると爆音がして夜中に目が覚めるんだ。最近になってそういうことがなくなってきた。」
私は何も言えなかった。その年は、戦争が終わって50年が経とうとしていた。時代が昭和から平成になっても、バブル絶頂期を迎えても、国際社会と言われる世の中になっても、祖父の戦争は1945年8月15日に終戦を迎えても終わってはいなかったのだ。
その話を姉にした。
「そうだったんだ。そう言えば昔さ、長作のじいちゃんがよく家に来てたの覚えている?」
長作(チョサク)とは屋号である。粟島は屋号を使って会話をするのが当たり前なのだ。長作のじいちゃんは私の祖父と戦友でもあり、親友だった。
「うん。毎日、お茶を飲みに来てたよね。」
「そう。ほんと毎日ね。それでね。ある日、二人で会話をしている様子をのぞいたらじいちゃんが涙ながらに
『自分だけ生き残って帰って来てしまった…』
って言ってたんだよ。」
その話を聞いて胸が締め付けられた。もしかしたら島に帰って来た時も負い目を感じて戦争が終わって生きて帰って来た時に
「そんなに慌ててどうした?」
という言葉になったのかもしれない。生きてて良かったと当たり前に思う感情すらも戦争は奪ってしまうのだ。
戦友の死を胸に抱き、自分だけ生き残って帰ってきてしまったという負い目を感じてじいちゃんはずっと苦しんでいた。想像を絶する経験をして、思い出すのも苦しかったであろう戦争体験を幼いころから私に話してくれた祖父。優しいまなざしの奥深くに刻まれた悲しい歴史。毎年、8月15日を島で迎える私は祖父があの頃話してくれたことを胸に、お墓にいる祖父の前で耳を傾けている。