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質的研究の研修を受けたので、備忘録という振り返りを行う。

エスノグラフィー

エスノグラフィーとMーGTAの違い

 エスノグラフィーは、参与観察。
 デティールがインタビューだけではない。
 その人を取り巻く風景(家、地域の様子、雰囲気、印象)描写すべきものが多い。
 以前、M-GTAでまとめようとしてまとめられない場合は、エスノグラフィーでまとめれば良いと書いてあった書籍があったように思うが、近年の書籍ではなかったので、探してみようと思う。
 そもそも、M-GTAは、インタビューデータを使うことになるので、風景まで書いていなったように思う。
 もし、M-GTAからエスノグラフィーにシフトチェンジするのであれば、インタビューを実施するときに、かなり詳細な風景のメモが必要となると考える。
 ただし、この場合は、Web会議システムでは成り立たない。
 
 現場に何度も足を運ぶ必要があると思う。
 
 ただ、MーGTAは、研究の合理的判断として、分析焦点者を置く。

 また、データから、概念・カテゴリーを抽出する訳であるから、デティールにこだわる部分は同じであっても、その部分をグラウンデッドセオリーは捨てる作業があるため、やはりエスノグラフィーへの転換は難しいように思える。


 

エスノグラフィーとM-GTAの共通点

 同じ質的研究のため、記述をしていく作業も分析の一部となる。
 また、未知の領域の研究であれば、どちらも細かい観察・風景の描写が必要であると考える。つまり、前述したがデティールにこだわる点は同じ。
 また、リサーチクエッションの立て方も同じような気がするが、M-GTAでは、一度分析テーマ、分析焦点者を立案した場合、変更しない。
 ただ、エスノグラフィーは、エントリー後に修正が入ることは多い。

良い質的研究とは

ルポ50・科学50

 ルポルタージュとエスノグラフィーの違いどこにあるのか? 
 サトウタツヤ氏の書籍らしいが、良いエスノグラフィーは、ルポルタージュ50%、サイエンス50%であるらしい。
 その人たちを知りたい、知ってほしい。ということは、共通点だと思うが、そこをさらに科学的に分析することが研究となるのか?
 この部分に厚い記述があるのだとうが、これをうまく説明する知識が足りない。

構築主義、GTAを論ずる、客観主義、批判的実在論

 構築主義を考えたとき現実を言語によって構築する。
 ナラティブターン(narrative turn)は否定できない。
 
 客観主義も習ったようで、理解ができていない。

 哲学であるのが、自分自身の理解が足りていない。

書くこと

 とにかく記述し続けることでしか前に進めない。
 論文は、質的作法ではなく、書きながら考えるべきである。
 間違えて修正するために、学会や研究会があるのではないか?
 間違いを恐れず、批判に頭を下げる。
 足を踏まれれば頭を下げる。

学んだこと

寿命が見えてきた。人生の終着点が山頂であるならば

 質的研究の世界は、マリアナ海溝のように深く、木星に到達するようにも遠い。
 と感じているが、実は、浅瀬で隣の駅かもしれない。
 つまり、とりあえず、何度も何度も挑戦してみることで、気づくと教え側に立つことができるのかもしれない。
 なぜ、深海遥星と感じたのか?
 これは、作る側の思考に触れているからではないか?
 実は作る側ではなく「使う側」である。
 人生の山頂が見えてきた。
 なので、大きな世界に踏み出す前にブレーキを踏む。
 違う、例え明日死ぬとしても、山頂を目指すために険しい上り坂への一歩を踏み出す。

質的研究の戦略

 書くことは志向の外在化。
 頭の中には正解はない。
 なぜなら、痛みや苦しい、老いを認識しているから。
 その認識した世界に出すしかない。

 問いは、リサーチクエッションは?仮説。
 つまり、「この人たちは、こういったことをする人たちだ」
「この専門職は、こういったプロセスをたどるはずだ」が仮説である。
 仮説は、仮の正解。
 つまり、answer。
 そして、answerを作ったあとにQを作るのだ。
 これがリサーチクエッションなんだ。
 当たり前のことを、きちんと科学的に検証して、当たり前を証明する。
 そこまで、文章を完成しのちに、調査を始める。
 当然、先行研究も踏まえる。
 とりあえず、研究方法、研究結果(仮)、考察、まとめまで、作ってしまってから、調査を始める。
 これは量的・質的関係ない。
 研究を始めてからでは遅い。
 つまり、準備はIMRAD(仮)を作ることである。

 なるほど、やってみよう‼


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