NDS Chapter 2
午後八時。
今日の仕事も終わり、署から帰宅するには、市内唯一の繁華街である三条通りをJR奈良駅前から春日大社に向かって歩いて行かなければならない。
この時間になると、通り沿いや商店街のお店はほとんど閉まっていて、とても観光地とは思えない。
昼間とは打って変わって、人通りも少なく閑散としている。
もっと観光客を呼ぶには、ホテルの充実と夜間に開いている店を多くする必要がある、と言われているけど、私は今の状況が大好きだ。
猿沢の池を越えて、一の鳥居を過ぎると急に暗くなる。
街灯が少ないからだ。
さらに進んで行くと、足元や鹿が目の前にいても分からないくらいに暗くなる。
聞こえるのは、遠くの車の音と鹿の鳴く声だけ。
・・・のはずだった。
今夜は私の踏む砂利の音の他に、もうひとつ砂利を踏む音がする。
耳を澄ませると、私の右前の方から音が聞こえてくる。
私に相手の足音が聞こえる乗っただから、相手にも私の足音が聞こえているはずだった。
でも、離れるでもなく一定の距離を保ったまま歩いて行く。
雲が無くなったのか、薄く月の光がさした。
朧に前を歩く人影が現れる。
今まで暗くて気づかなかったが、数頭の鹿が、人影と一緒に歩いていた。
人影は、春日大社の参道から逸れて飛火野に入って行った。
木立が少なくなると、人影がはっきりとしてきた。
私も続いて飛火野に入った。
人影はずんずんと東の方に歩いて行く。
鹿の数がどんどん増えてくる。
数頭だったのが十数頭に、十数頭だったのが数十頭に、やがて百頭近くなった鹿の群れが、人影に続く。
鹿園を過ぎ飛火野の東の端まで来たところで、人影は歩くのをやめた。
ここは日中でもほとんど人が来ない場所だった。
まばらな木立の間にひしめき合うように鹿がいた。
人影が振り返った。
淡い月の光が人影を照らす。
私はその時初めて人影の顔を見た。
少年のような、凛とした面立ちだった。
今で言うところのイケメンの部類に入るのだろうか。
「みんな、よく集まってくれた。」
人影が声を発した。
見た目からは想像もdrきない、深く低い声だった。
集まった鹿のの群れが、一斉に頭を垂れる。
鹿せんべいをねだる時のチャラいお辞儀ではなく、真摯なお辞儀だった。
「最近、蹴る、叩く、追い回すと行った無礼を行う輩が増えている。数百年もの間、人間と共存してきたが、そろそろ潮時かも知れん。もう人間に媚びを売り、諂うのはやめようではないか。焦らす、暴行を加える、追い回すといった、我々の尊厳を踏みにじるような輩には、それ相応の罰を与えても構わない。怪我を負わさない程度に噛んだり、蹴ったり、突いても構わない。それでトラブルになった時は。」
人影はここで言葉を切った。
そして、私をじっと見据える。
同時に数百頭の鹿たちも私を見た。
「あの者が何とかしてくれる・・・だろ?」
不意に話を振られた私は、凍りついた。
やはり私がつけていたことに気づいていたんだ。
「ふっ」
と人影は笑うと言った。
「そうそう、そのものがお前に礼を言いたいそうだ。」
「えっ?」
私は周りを見回した。
すると一頭の鹿が私の前まで歩出てきた。
「この子は?」
「先日、お前が助けただろう?」
「私が助けた?」
「もう忘れたのか?何度も蹴られていた鹿を助けただろう?」
私は不意に思い出した。
東大寺の南大門前の石畳で、外国人観光客に蹴られていた鹿の事を。
鹿が私に深々と頭を垂れた。
「私からも礼を言う。ありがとう。」
人影も深くお辞儀をした。
それから、人影は鹿の群れに言った。
「みんな、戻りなさい。」
鹿たちは三々五々夜の闇に消えて行った。
「さぁ、あなたも帰りなさい。春日香織さん。」
「どうして私の名前を?」
「もう夜も遅い。暗闇で物騒だからそのものを護衛に付けよう。」
いつの間にか私の横に、立派な角が生えた牡鹿の巨躯があった。
「ありがとう。」
そして、聞いてみたくなった。
「あなたの名前は?」
「私の名前は、武甕槌命。」
「たけみかづち?」
「または、鹿島大明神。」
「かしまだいみょうじん?」
どこかで聞いた事がある。
どこでだったろう。
「いつ、どこで会えますか?」
「次の満月の夜、若草山の頂上に来れば会える。」
この言葉を残して、人影、たけみかづちは闇に溶けるように消えた。