本当の「思いやり」ってどんな「思いやり」?
思いやりということが、いかに尊い、聖なる情念であるかということは、何人といえども知っている。
しかし、しからばそれを真実実行している人はというと、特に現代、遺憾ながら、まことに少ないのが事実である。
おおむねは、思いやりという暖かい心の少ない、冷たい人が多い。
現在われわれが住んでいる世の中を見てみると、この消息の事実がすぐ分かる。
社会のどの層に活きている人を見ても、自己の利害関係のみを本位とし、いささかなりとも、利害関係に相克(そうこく)のある場合は「思いやり」などという心持ちを露ほども出さず、断然極度のエゴイストになる人が多い。
そして、この風潮は嘆かわしくも、夫婦、親子、兄弟姉妹の間柄にも浸透している。だから概して、和気あいあいたる、平和な状態の家庭が現代極めて少ない。
これというのも、畢竟(ひっきょう)「思いやり」という、聖なる心情の発露に一番大切な根本要素である相手方の気持ちになるということを考えないからである。相手方の気持ちになるということは、わかりやすく言えば
「自分が先方の立場にいたらどうであろうか」
ということを考えることなのである。
ところが、こうした真理はわかっていても、なかなかいざとなると、相手方の気持ちになって考えようという気持ちになれないという人がある。
しかし知っていて、なおかつそうした気持ちになれないというのは、一体いかなるわけかというに、それはせんじつめれば、畢竟(ひっきょう)その人の人生観なるものが、あまりにも「自己中心主義」に偏重されているからである。
そして、自己中心主義に、その人の人生観がなっているのは、人生生活に対する精神態度が知らず識らずの間に何等の自制も克己もないセルフ・ファスト(自己中心)という価値のない状態に習性づけられたからである。
こうした人生観で、この貴重な人生に活きると、一切の事物事象に対する考察が、勢い普遍的であり能わなくなって、結局どうしても狭義なものに余儀なくされる。
すると、その当然の結果として、人間のみのなし能う美しい心情である「思いやり」という、聖純なるものの発露に一番大切な、相手方の気持ちになって考えるという、根本要素が無になる。
なぜ人間というものの大部分が(特に現代の)「自己中心主義」という人生観で活きている人が多いのか?
これは「世界観が、正当に確立されていない」からだと断言する。
せんじつめると宇宙の真相というものに対する考察と理解とに、徹底したものを、その人生知識の中にもっていないがためであるということが、その原因をなしている。
事実において宇宙の真相というものが、正しくわかってくると、自己中心主義という人生観は、決して完全主義に活きんとする者の正当な人生観でないことが、自然と合点できるようになる。
まず第一に考察すべきことは、この世にありとあらゆる万物万象は、何によって作為されているかということである。
この世の物という物のすべては、いずれも一切独自的に存在するものはひとつとしてなく、厳密に相互に協調して、その存在を確保しあっているという、犯すべからざる現実があるということである。
わかりやすく言えば、もちつもたれつ、互いに助け合って調和を図りながら存在しているということなのである。
お互い人間が、生存生活しているのだということに想到したなら…
自己の存在のみを重視して、他との協和も協調も考えないで活きるという、自己中心主義が、決して正当な人生観でないということが容易に首肯(しゅこう)されると思う。
「思いやり」という事を現実にするには先ず何を措いても相手方の気持ちになって考えてみる事である
by 中村天風
「思いやり」
簡単に言ったり、聞いたりする「思いやり」
たま~に、無理強いされたり、押し付けられたりする「思いやり」
いろんな「思いやり」がある「思いやり」
でも、本当の「思いやり」ってそんなに簡単なものではないし・・・
自己満足な「思いやり」なんてものは「思いやり」でも何でもない、ただの自己満足な「思いやり」
話さなくていい
何もしなくていい
一緒に居るだけでいい
「うんうん」って聞いているだけでいい。
自分の気持ちや心はほっといて、相手の気持ちになるのが「思いやり」
今日も私の note を見ていただき、ありがとうございました♪