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バルカン旅行記(中編)
コソボ共和国
2023年12月31日、みんなが日本の家でぬくぬくと紅白を見ているまさにその時私たちはコソボ・プリシュティナ行きのバスに乗っていた。幸いプリシュティナは出発地の北マケドニア・スコピエからはごく近い距離にあり日没前には到着することができた。プリシュティナのバスターミナルはお世辞にもあまり綺麗とは言い難い建物であった。年末で暇そうなタクシーの運転手と物乞い以外に特に人影もなく建物もボロボロなためブルガリアのバスターミナルと同じく荒涼とした印象を抱かせる。さて、このバスターミナルから今晩過ごすホテルに向かわなければならないのだがホテルへの行き方には少々頭を悩ますことになった。というのもバスターミナルからホテル付近へ向かう公共交通機関が存在するか不明であり、もし存在したとしても年末に運営しているとはあまり思えず、あるいはそこらへんで暇そうにしているタクシーの運転手を捕まえてもいいのだが、どこか胡散臭さを感じ、白タクの可能性が否めなかったためこれはなるべく避けるのが吉だろうと感じたためである。結局しばらく思案した挙句私たちはいつも通り歩くことにした。バスターミナルからホテルまでおよそ1時間ほどだろうか、頑張れば日がすっかり沈み切るまでに目的地に到着できるような気がする。そうして歩いたプリシュティナは不思議な街であった。街全体がつぎはぎのパッチワークのようであり、例えばある区画はよく整備されて綺麗であるのにそのすぐ隣は社会主義時代に建てられた何の飾り気もない灰色の古めかしい建物が鎮座しているという具合でありあたかも統一された都市計画が一切存在していないかのようである。この原因の一端は1999年のコソボ紛争にあるのかもしれない。コソボは冷戦時代ユーゴスラビア社会主義連邦共和国のなかの一自治州であった。この自治州はアルバニア系が住民の大半を占めており、それゆえ常に民族主義に起因する政情不安に悩まされていたようである。そして1980年にユーゴスラビアを纏め上げていたカリスマ的指導者であるティトーが死ぬと、この不満が一気に噴出することになる。コソボも他の国々とともにユーゴスラビアからの独立を宣言したが、これを認めないセルビアがコソボに軍事介入し1998年からコソボ紛争と呼ばれる熾烈な戦いが始まった。コソボの首都であるプリシュティナも戦いに巻き込まれたようなのでこの街全体に漂う暗い雰囲気はこの戦いの爪痕なのかもしれない…そんなことを思いながら街を歩き続けていると少し開けた広場にでた。広場にはアメリカ大統領ビル・クリントンの銅像が片手をあげて立っており、そのすぐ横に立っている比較的新しい集合住宅のような建物にはアメリカ国旗とアメリカ大統領ビル・クリントンの肖像画が堂々と飾ってある。この景色は何なのだろう?予想だにしなかった光景にO君と一緒に面食らったが、少し考えてみるとクリントンはまさにコソボ紛争中にアメリカ大統領を務め、しかもコソボと敵対していたセルビアを空爆する決断を下した人物である。そうであるならばこの銅像と肖像画は敵国を爆撃したことに対する感謝の気持ちとして設置されたのだろう。これも紛争の帰結の一つである。ちょうど戦争のことを考えながら街を歩いていたためプリシュティナの街でこのような形でクリントンに出会ったことは深く印象に残った。
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またしばらくこの継ぎ接ぎのような街を歩いていると、一つ困ったことに出会した。この街はうんざりするほど野良犬が多いのである。通りを歩いていると常に1、2匹の野良犬に付け回され警戒し続けなければならなかった。何も飛びかかってくるとか噛み付いてくるわけではないのだが、それでも狂犬病の恐れがあるので犬の一挙手一投足に目を見張らせなくてはいけない。私は高校生の時ルーマニアにしばらくいたので野良犬の対応は多少慣れているつもりだったが、それでも緊張するものである。しかも一部の野良犬はどうやら狂犬病の予防接種を受けていないようだった。こうして私とO君は「こいつらに噛まれたらどれくらいの確率で死ぬのだろうか。」と話しながらプリシュティナのいかにも発展途上という街並みの中、野良犬数匹を引き連れてホテルまで向かった。今思うとずいぶんシュールな光景だっただろう。そしてちょうど日が暮れた頃にホテルに着いた。犬とはここでお別れである。さてこの宿は確か一泊€30(4,500円)程度であったと記憶しているがその割には部屋が広く、清掃もよく行き届いていた。バルコニーもついておりそこからプリシュティナの景色を一望できる。O君がネットで見つけたホテルだがいいところを予約してくれたものである。私たちはしばしここで休憩した後年越しを迎えるための食材や飲み物を外に買いに行くことにした。件の犬に再び付き纏われないことを願いながらホテルの外に出て近くのスーパーでワインやビール、チーズ、ハムなどを買い、ピザ屋で2枚ほどのピザを注文した。欲を言えば蕎麦が欲しいがそんなものはここコソボで望むべくもない。同じ炭水化物であるピザがその代用品である。これらのご馳走を無事に確保した後私たちはホテルに戻り部屋で年越しパーティーを始めた。どの食材も旨いが特に生ハムが美味しい。ヨーロッパは乳製品や肉製品が全般的に日本よりも美味で、しかも安価であるがここでも存分に堪能できた。ワインも美味しいが、ここまで蓄積されていた旅の疲労と年末であるという事実に少し興奮していたのだろうか、いつもより早いペースで飲み続けたところ早々に気分を悪くしてしまった。実はこの旅に出る直前、イギリスで友人とクリスマスパーティーに参加していたのだがそこでも飲み過ぎて痛い目を見ていた。舌の根も乾かない短いうちに再びこのザマであり過去の失敗から学ばない自分の愚かさにただただ呆れ返るより他なかったが、しょうがないので水を飲んでしばらくベッドに横になっていた。そしてその姿勢のまましばらくO君とたわいもない会話を続けていると、急にホテルの外が騒がしくなった。花火の音だ。バルコニーに出て外を見ると街の所々から散発的に花火が打ち上げられている。そういえばバルカン旅行に行く前、イギリスでブルガリア出身の友人からバルカンでは花火で新年を祝うと聞いていた。まだ時刻は22時を少し回った頃で日付が変わるまではしばらく時間があるが前祝いということだろう。花火が最も盛大に打ち上げられるのはやはり年越しの瞬間で、その時はぜひ街の中心部で花火をみたいとO君と話し、23時30分ごろになったら外出することにした。バルカン旅行中は安全と休息のために極力深夜は外出しないようにしていたのだが、この年越しの時だけが唯一の例外であったように思う。その時間までに酔いを覚ますために引き続き水を飲んで横になっていたら私はいつの間にか眠りに落ちてしまった。O君に起こされて時計を見るともう23時30分である急いで支度をして二人で外にでた。酔いはすでに覚め、野良犬は何匹かホテル前にたむろしていたが幸い今回は絡まれることはなかった。犬たちを尻目に私たちは花火があちこちで打ち上がっているプリシュティナを足速に歩き中心部に向かう。日のもとで見たあまり綺麗ではなかった街並みも花火の光のもと見ると華やかなようであり数時間前と比して異質であった。ただし花火と犬はやたらと見るのに人の姿がほとんど見えないことが少々気がかりである。そうこうしばらく歩いていると街の中心部らしきところについた。人気は未だ少なくどうしたものかとO君と顔を見合わせていると急に周りから一斉に花火が打ち上がり、花火の光で辺り一面が昼のような明るさに包まれた。それと共に歓声が聞こえる。目を凝らすと周囲の公園に人がいて早くも次の花火の導火線に火をつけていた。どうやら私たちは暗闇の中の人影を見逃していたようだ。そしてハッとして時計に目を向けるとちょうど日付が翌年のものとなっていた。2023年も終わりである。ようこそ2024年。それにしても年越しをコソボという遠い異国ですることになろうとは!私とO君はその奇妙さに少し笑いながら年明けの挨拶をした後食べ残した年越しピザを食べに花火の閃光と火薬の匂いのなか宿への帰路についた。
朝起きると吐息の中に微かなアルコール臭を感じた。結局年を越してもアルコールは抜け切らなかったらしい。水を飲み、机の上に放置されていたピザを一片口に運ぶ。ピザはすでに冷め切ってカチカチに固まっていた。「ああ、おせちが食べたいなあ」と一人で愚痴をこぼし、日本の友人や家族に思いを馳せているうちに隣でO君も起きた。改めて年明けの挨拶を済ませた後、私たちは机の上に散らかったビンや食品の包装紙などのゴミを片付け、身支度を済ませて宿のチェックアウトを済ませた。スタッフの方々も英語はなかなか通じないながらもとても親切であり、大変良いホテルであった。そうしてプリシュティナの街中に出た我々はまずホテルのすぐそばにあるとある公園に向かった。その公園とはずばり「安倍晋三公園」である。そう、あの日本史上最長の任期にわたって首相を務め、最後は非業の死を遂げたあの自民党の政治家だ。その彼がプリシュティナの中心(からは少しはずれているが)の公園に名前を残しているのである。その理由として日本外務省の説明によるとこの公園は安倍氏がコソボを含めた西バルカン地域の平和に貢献したから作られたとある。具体的には彼の任期中の2018年に、「西バルカン協力イニシアティブ」なるプロジェクトを実施したことが西バルカン地域の平穏に資したと評価されたのだろう。このプロジェクトは西バルカン地域に今もなお強く燻る民族問題や経済社会面での課題を解決するために日本が主導しているものであり、外務省のホームページをみると決して規模は大きくないものの今も継続して実施されている。さて、「西バルカン協力イニシアティブ」がどの程度目的を達成することができた、あるいはしているのかはわからない。ただ安倍晋三公園を作るのにプリシュティナ市は€277,000(4千万円程度)をかけたというからそれなりに感謝されているのだろうか。但し公園は去年(2023年)の10月に公にされたにもかかわらず、私たちが訪れた時すでにあまり綺麗とは言い難かった。公園内には昨晩打ち上げられていた花火のゴミが散乱し、タバコの吸い殻も目立つ。そして公園の唯一の見どころである安倍晋三公園の記念碑はすっかり錆び付いていた。ここで私たちは写真を撮ったり、日本にいるだろう友人たちの話を少ししたりした後公園を後にして、プリシュティナのバス停に向かった。なおこの公園を訪れた理由は単に日本人の名前を冠した公園があることが珍しく、興味を持ったからであり、何ら私たちの政治信条とは関係ないことは強調しておく。
バス停に向かう途中も野良犬に囲まれた。しかもよく見ると次々と後をつけてくる犬が入れ替わっているのである。野良犬には野良犬なりに縄張りがあり、縄張りの範囲を超えて後をつけることはしないのだろう。しかも不思議なもので犬は現地人にはついていこうとせず、私たち観光客のみつけてくるのである。匂いで違いがわかるのだろうか。いずれにせよ強かな犬たちである。こうして犬たちに囲まれながら私たちはバス停についた。時刻は朝10時を回ったくらいだろうか。バス停のチケット売り場に向かい、あまりやる気のなさそうな売り場のおじさんに声をかける。さて私たちはこのバス停に車で新年にバルカン半島の各種公共交通機関が動いているかわからず、次の目的地に出るバスが運行しているか不明であったのだが、おじさんに聞くと走っているという。一安心だ。ここで次に向かうアルバニア・ティラーナ行きのチケットを2枚買った。値段は二人で30ユーロ、所要時間は5時間程度が見込まれた。まあまあ長い旅であり、ティラーナには日没後についてしまう。あまり知らない街に日没に到着するというのは避けたかったがここは新年ということもあり致し方ないだろう。バスは13:00に出発することになっていたのでそれまでプリシュティナのバスターミナルでおやつや水を買ったり、併設されているカフェで軽めの昼食を取ったりして時間を過ごした。そしてここで暇潰しをしている間に日本の能登半島で大地震が起きたことを知る。親戚や友人は皆どうやら誰も被害に遭うことなく無事だったが、能登半島含めた北陸は私が日本国内で個人的に好きな地域でありショックであった。ターミナル内のベンチにかけてOくんと能登半島の現況についてツイッターなどで調べているとバスが来た。これまで乗ってきたバスと何ら変わらない普通の大型バスである。他の乗客はそれほど多くなく、座席には空席が目立った。それでもバスはこの何処かチグハグとした印象が拭えないプリシュティナの街を発ち、アルバニアの首都ティラーナへと走り出した。
アルバニア共和国
アルバニアという国は多くの読者にとって馴染みがない国だと思う。私にとってもそうであった。多少この地域に詳しい方であればネズミ講で経済が破綻した国だとか冷戦期に鎖国政策を主導した政治家エンヴェル・ホジャの名前だとかそれくらいは聞いたことがあるかもしれない。残念ながらその程度の知名度だろう。しかし日本での知名度の低さにも関わらずアルバニアは極めて面白い歴史を有している国である。まずアルバニア人の起源から見ていこう。アルバニア人がどこからきた誰であるのかについては諸説あるが、最も有力な説は彼らがイリュリア人の末裔であるというものである。イリュリア人。古代よりバルカン半島西部に居住していた民族であり、あのアレクサンドロス大王とも激しく戦った尚武の気風を誇る民族である。彼らは時に部族同士の抗争に明け暮れながらもイリュリア王国という独立の王国を築いた。このイリュリア王国は紀元前3世紀より急速に力を得ていったローマと対立し、幾度にわたる戦争の末、紀元前2世紀にとうとう滅ぼされ、ローマの属州となった。ローマの軍門に降った後もしばらくイリュリア人は抵抗を続け、紀元6年から9年にかけて起きたイリュリア人の大反乱は、最終的に鎮圧されたもののローマ帝国に甚大な被害を与えることに成功した。その後はローマのもとで長らく平和を享受するがそれでも彼らイリュリア人は尚武の気風を忘れることはなかった。その理由の一つはおそらく彼らが住んでいた土地が貧しく、立身出世を志す若者は軍に志願するくらいしか道がないことに起因したのだろう。そういうわけでイリュリア地方は多くの軍人を輩出したが、3世紀になりローマ帝国が様々な危機に直面して軍人が皇帝になることが増加するとイリュリア出身の皇帝も自然と増えることとなる。著名な人物だけでもディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス大帝、もう少し後の時代(6世紀)には本旅行記のトルコ・イスタンブル編でも紹介したハギア・ソフィアを建立し、また征服戦争を繰り返してローマ帝国の栄光を回復したユスティニアヌス大帝などがあげられる。しかしこうしてローマ帝国と密接な関わりを持っていたイリュリア人であったが、6世紀後半になると大きな変化を迫られた。バルカン半島に全く新たな民族スラヴ人が大挙して流入してきたのである。ローマ帝国は彼らの侵入を防ぐことに失敗し、イリュリア人が住む地域にもスラヴ人は迫ってきた。そこで彼らは古来より住み慣れていた土地を離れて南のディナラ・アルプス山脈に逃げ込み、独自の言語や文化を保ち続けた。この逃避行を境に彼らは一般的に「アルバニア人」と呼ばれることになる。中世に入るとオスマン帝国の支配下に置かれイスラーム教を受容したが、アルバニア人はオスマン帝国の独立後もこの信仰を捨てることなく、今でもヨーロッパの中では例外的にムスリムが多数派の国となっている。さて時代が飛んで第二次世界大戦後の冷戦の時代になるとアルバニアは共産主義陣営の一員となるが、ここでも単にソ連に服従していたわけではない。むしろソ連を仮想敵国と見做し、また隣国ユーゴスラヴィアとも対立するなど独自路線を歩むことになる。こうしてほぼ全ての近隣諸国と敵対したアルバニアは国内に大量のコンクリートトーチカ(Wikipediaによるとその数50万基)を築いて国土を要塞化し、また事実上の鎖国政策を実施した。そして国民には国土全体に張り巡らされた監視網によって病的とも言える監視を行うなどあまりにも独自すぎる諸政策によって当時の国際社会でも異彩を放っていたアルバニアであったが冷戦終結後は無難に資本主義化した。その過程で国民の大半がネズミ講にはまり経済と政府が破綻するなどの事件もあったが、概ね現在では政情も比較的安定した「普通の国」になっていると言えるだろう。以上がアルバニアという国の歴史の概観である。自分の専門が古代史のため古代に重きが置かれた解説になってしまい、また自分の拙い文章力で十分に魅力が伝えることができたか不明であるが個人的には改めてとても面白い国であるように思う。古代イリュリア語の流れを汲む独自の言語やヨーロッパ世界では珍しいイスラム教の国など独自の文化・風習がありその歴史も波瀾万丈である。
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さてバスは山道のような道を走り続けていたが、今にも日が没しようとする時にようやくコソボ・アルバニア間の国境についた。この国境では出国する際にはコソボの出国審査官が、入国する際にはアルバニアの入国審査官がバスに乗り込んできてパスポートを乗客から回収し、乗客はバスに乗ったまま全員のパスポートが返ってくるのを待つという出入国形式であった。この方がトルコ・ブルガリア間であったように乗客がバスから降ろされる形式よりも楽でいい。手続きに10分ほど費やしただろうか、私たちは問題なくアルバニアに入国することができた。道の両脇は呆れるほど厳しい崖によって取り囲まれ、ますます暗くなっていく。窓の外に目をやっていると道のすぐ近くにコンクリートでできた円状の人工物がいくつか並んでいた。先述したコンクリートトーチカの一部である。50万基以上設置されたトーチカは今でも完全に撤去しきることができていないと聞いたが、まさかこんなすぐに見ることになるとは思わなかった。少し興奮し、O君に「今のみた?」としばらく話していたが、その後は特に見るものもなく、すっかり暗くなった険しい山道を縫うようにバスは進んだ。そして瞼を閉じてウトウトしているといつの間にかバスは目的地ティラーナについた。ティラーナのバスターミナルは、入り口だけやけに手が込んでいる他は、無機質なコンクリート剥き出しの建物であり、これまでバルカン半島で見てきたバスターミナルとそう大きく変わることはない。ここから大通りをしばらく歩いてホテルに向かう。道中で夕飯が食べられるようなところがないか探していたのだが、大抵のレストランはしまっていた。のみならず惣菜が買えるようなスーパーマーケットも閉まっており、少々難儀した。おそらくアルバニアは新年をしっかり祝う国なのだろう。しまいにはあまりに何か食べることができるような店類が見つからず、路上のキオスクしか開いている場所がなかったため、ホテルの目の前にあるキオスクでポテチと7Daysのクロワッサンを買ってこれを夕飯の代わりとすることにした。なお本バルカン旅行中では7Daysのチョコレートクロワッサンを主食としていたといっても過言ではないくらいこれを食べていた。O君はあまり甘いものが好きではないようなので、違うものを食べていたが、私にとっては程よいチョコレートの甘さとどこでも食べられるお手軽さ、そしてかなり量があることから大変重宝するパンであった。読者でもしバルカン半島を旅行することがあったらぜひこのパンは試して欲しい。舌鼓を打つ…というような食べ物ではないが、旅行中常に私のリュックにはこのパンが入っていて疲れた体を糖分でリフレッシュしたい時のため、7Daysのチョコレートクロワッサンは私の大切な相棒であった。食べすぎて旅行後、少しデブになった気がしなくもない。ともかく、7daysとポテチ、O君も今晩食べるものをキオスクで買ってホテルに向かった。ホテルはティラーナのメインストリートから少し脇に逸れた奥まった場所にある。一見するとわかりづらい入り口からホテルに入り、受付に声をかけた。内装は綺麗すぎず汚すぎず、広すぎず狭すぎずととても家庭的な雰囲気であった。そしてしばらくすると奥から宿の主と思われるおばさんが出てきてチェックインの応対をしてくれた。そして宿の説明や翌朝の朝食場所および時間について説明されたあと、通された部屋は壁の一部から煉瓦が剥き出しであり、その煉瓦に蜘蛛の巣が多少張っていた以外は全く文句の付けようがない部屋であった。大きさもトイレ・シャワーなどの設備も申し分ない。部屋の中には小さな本棚もあり、そこにはインクが擦れ、紙もヨレヨレのボロい観光ガイドブックや、これまでここに泊まった旅人が忘れたのだろうか、インド哲学の専門書や分厚い小説などが何冊か収まっていた。部屋では先ほど買った軽めの夕食をとり、私は22:00ごろに早々に寝ることにした。翌朝の朝ごはんの時間が午前8時と少し早かったのである。
7:30ごろに起きた。起床後は顔を洗い、歯を磨いたあとO君が起きるのを待ってから早めに朝食の場所に行くことにした。朝食の場所と置かれており、席には2名の先客がいた。ドイツ語で会話をしていたのでおそらくドイツ人かオーストリア人なのだろう。私たちが席につくと、昨晩チェックインを担当してくれたおばさんがきて、飲み物はコーヒーかお茶がいいか、メインはアボカドのトーストだが、それでいいかなどを聞いてきた。コーヒーをお願いし、メインはそれで問題ない旨を伝える。そしてアボカドのトーストが出てくるまで、今日はどこをめぐるかO君と話しながらいくつかの果物を食べた。旅行中は野菜や果実類が不足しやすいため、このような時に意識的に摂るようにしなければいけない。そうしてしばらくするとアボカドのトーストをおばさんが運んできた。これはトーストにベーコンやアボカド、目玉焼きを挟んだとてもボリュームある一品であった。この一品だけでだいぶお腹が満たされたが、それを食べ終わるや否や、おばさんはコーヒーと共に、アルバニアの伝統お菓子という「バクラヴァ」を持ってきた。はて、バクラヴァはトルコのお菓子ではなかっただろうかと思いもしたが、あまり詮索はしないことにした。変にナショナリズムを刺激して人の好意を無碍にすることもない。ともかく蜂蜜がたっぷりかけられたお菓子バクラヴァはそれ単品では少し甘すぎるのだが、ブラックコーヒーと一緒に飲むと苦さと甘さが中和し、とてもよくあう。ついつい食べ過ぎそうになってしまった。こんなに贅沢な朝食を取ったのは久しぶりであり、気分もいい。そして部屋に戻り身支度を済ませたあと、ティラーナ観光へと向かった。
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最初に向かうはティラーナの中央広場であるスカンデルベグ広場である。アルバニア屈指の英雄スカンデルベグの立派な騎馬像が中心に鎮座するこの広場はすぐ近くに見所となるような観光名所が多く隣接していることから観光客がまず向かうべき場所である。私たちが訪れた時は新年のお祝いだろうか、臨時の遊園地が広場に開設されており、出店やアトラクションで大変な賑わいを見せていた。少し観光客である私たちは場違いな感じがしないでもない。ともかく広場の名前の由来であるスカンデルベグの騎馬像の写真をとった後、早速ティラーナ見所の一つである「Bunk’ art 2」を見ることにした。ここは他の国ではなかなか類例を見ることができない珍しい博物館である。その展示内容はズバリ、アルバニアの内務省および隷下の秘密警察「シグリミ」が冷戦期に如何なる活動をしていたかである。一体それの何が面白いのかと思う人もいるかもしれない。ここで少し解説すると先にも述べたように冷戦期のアルバニアは周辺の国全てと敵対し、事実上の鎖国体制に入った。そして外部の「敵」から国を守るためにトーチカによって国土全体を要塞化するとともに、国内には厳しい監視体制を築き、国内の不安要素を取り除こうとした。この時に活躍したのがアルバニア内務省および「シグリミ」である。旧共産諸国の秘密警察というのはソ連のKGBしかり、東ドイツのシュタージしかりどこも大変評判が悪いが、「シグリミ」というのはそれらとすら一線を画すほど苛烈な監視網で国内にいると見做されていた「反体制派」を弾圧した。彼らが行った弾圧というのは現代にもその影響が尾を引くほど凄惨かつ大規模なものであったため、アルバニアでは彼らは負の歴史として見做されている。そしてそれについて解説するのがこの「Bunk’ art 2」とこの後に行くことになる「葉の家博物館」なのである。
さて、「Bunk’ art 2」が特徴的なのは、その中身だけではない。外見も他には類を見ない特徴を有している。なんとこの博物館は首都ティラーナに作られた地下要塞を流用しているのである。アルバニアは冷戦期に事実上の鎖国を行った後、国土防衛の一環として首都地下深くに蟻の巣のように要塞網を築き、有事の際には首都機能を丸ごと地下に移すことになっていた。この要塞の一部を用いて、冷戦期のアルバニアの秘密警察に関する博物館「Bunk’ art 2」は作られた。入り口はスカンデルベグ広場のなかに隠しきれない存在感をもって鎮座する、お椀をひっくり返したような形のトーチカから入る(ヘッダー画像を参照)。これも冷戦期に作られた50万基のトーチカの一つである。トーチカの中に入るとまず目に入るのは天井のドームにびっしりと並べられている人々のモノクロ個人写真である。彼らはいずれもこの博物館が題材とする秘密警察によって犠牲となった方々である。そしてこれらの写真に見送られながら地下に向かう急峻な階段を降る。地下はジメジメしており首筋が汗ばんでくるような気温であった。換気が不十分なのだろうか。いずれにせよ階段を降りてすぐにあるカウンターでチケットを買う。値段は一人当たり500 LEK(750円ほど)であり、アルバニアにしては高かった。その後薄暗く無機質な光に照らされた廊下を通って最初の展示室に向かう。その展示室にはソ蓮の代表的な機関銃AK-47が天井から吊るされ、秘密警察の軍服が壁にかけられていた。そしてその脇にアルバニアの秘密警察の歴史がアルバニア語と英語で掲示されている。アルバニアの秘密警察たる「シグリミ」は1943年に独裁者エンヴェル・ホジャの指導のもと作られた。エンヴェル・ホジャ率いる共産主義政権を打倒するべく西側諸国に亡命していたアルバニア人たちからの反共運動に対抗するため、というのが設立の目的であったが、エンヴェル・ホジャが死ぬまでアルバニアでは共産主義政権の一党独裁が続いたことを考えればこの目的を達成することには概ね成功したのだろう。ただしその過程でシグリミから疑いの目を向けられた人間の数はあまりにも多い。そして彼らのうち多くが尋問され、強制収容所にて強制労働をさせられ、処刑されることになった。シグリミの標語はPër popullin, me popullin(人民のために、人民と共に)であるがこの人民とは誰のことを指すのであろうか。今でもシグリミはアルバニア社会に大きな影を落としており、シグリミが有していた機密資料の公開は一向に進まないという。ともかく歴史についての部屋を抜けて順路に従い次の部屋に向かおう。次の部屋はアルバニア内務省の執務室が当時のまま再現されていた。木張の無機質の部屋の中には机があり、その上にタイプライターと何かのマニュアルが整頓されて載せられていた。その机の後ろには本棚があり本が数冊とコーヒーカップが二つある。このような場所でも来客用のコーヒーカップがあることに僅かながらおかしさを感じてしまった。人間の尊厳を無惨に奪い取ってきたにも関わらず来客のことを考えているとは!このような展示がしばらく続き、むわっとした空気の中汗を拭きながら展示を見ていると最後の部屋についた。最後の部屋は全く奇妙で奇怪である。これまでと変わらない無機質な部屋の中にロボットの形をしたオブジェクトが一つだけ置いてあった。そのロボットの頭はブラウン管テレビであり、白黒の映像が流されている。胴体は鉄の檻であり、その中には有刺鉄線で縛られた人間の脳みそが入っていた。手足は鉄パイプを無造作にくっつけて作られており、右手にはライフル、左手にはツルハシが握られている。見るも不気味であるが、考えればこれほどこの博物館にふさわしいオブジェクトもないかもしれない。ロボットの外見は全て秘密警察の圧政を象徴しており(鉄の檻、銃、ツルハシ、有刺鉄線など)、それが中の脳みそ(人間の知性、尊厳の象徴か)をガンジガラメにしている。
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この不気味なオブジェクトを後にしてトーチカの外に出た。地下から地上に出ると外の空気が爽やかに、涼しく感じられる。Oくんによると近くにまたアルバニア共産党に関係する建物、通称「ティラーナのピラミッド」があるとのことであり、そこを見に行くことにした。ティラーナのピラミッドはスカンデルベグ広場から歩いて10分ほどのところにあり、ピラミッドという名前を関しているだけあり白乳色の錚々たる見た目である。元々は独裁者エンヴェル・ホジャを記念するために作られたようだが、共産政権の崩壊後はさまざまな用途で使用され、今はアルバニアの若者に向けたITセンターになっている。ずいぶんな変わりようであるが、このピラミッドは上に登ることもできるので、Oくんと一緒に登ってみることにした。階段を使って頂上からティラーナの市街を眺望する。雲が少しあり、ピラミッドの周辺にはすでに高層ビルがいくつか立っているため、見晴らしが特別いいわけではなかったが、街が青い山にすっぽりと囲まれているのはバルカン半島に特有である。
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二人で何枚か写真を撮った後、我々はピラミッドから降りて再びスカンデルベグ広場に戻り、歴史博物館を見た。そして近くのレストランで昼食を摂った。ラムチョップのグリルを注文したが、安い上に量もあり美味しかった。ラムチョップの骨と格闘しながら、レストラン内のテレビを見ると、ちょうど日本で起きた地震の様子が流されていた。アルバニアのテレビで地震の様子が流れているのを見ると改めて地震の規模の大きさが実感を伴って理解されてくる。日本について胸騒ぐ思いになりながらもレストランをでた。もう時間は午後2時を回っており、日も傾いてきた。最後に再びシグリミ関連の博物館を見に行くことにした。その名を「葉の家(House of Leaves)」という。その赤煉瓦作りの外見を見る限り、単に大きな個人の家という印象が拭えないが、冷戦期にはシグリミの司令部が置かれた場所であり、市民の盗聴や秘匿捜査を行なっていた。先に見たBunk art2がシグリミそれ自体についての博物館だとすれば、葉の家はその被害者に焦点を当てた博物館であると言えるだろう。展示にはいかに市民がシグリミから捜査され盗聴されていたか赤裸々に示されていた。シグリミによる盗撮映像も上映されており、その監視の目がなんら政権に脅威を与えると思われない一般市民にも向けられていたことに衝撃を受けた。葉の家の最後の部屋にはシグリミが盗撮・盗聴に用いていた機器が展示されていたが、日本製の機器が多かったことが印象深い。冷戦期にアルバニアと日本は国交がなかったはずだが、どのように輸入したのだろうか?さて、葉の家を後にしたときはすっかり外も暗くなっていた。そそくさとホテルに戻るが、ティラーナは夜であっても車の数が多く、そこまで暗いとは感じなかった。道中で空いていたスーパーマーケットに入り今日の夕飯と明日の朝ごはんを買う。スーパーマーケットに入ると店員の女性からジロリと見られたが、アジア人は珍しいのだろう。夕飯にチーズとパン、ハム、朝食に7Daysのパンを買いホテルに戻った。私たちが帰った時、ホテルのオーナーはリネンを洗濯していたが、私を見ると手を止めて明日の朝食はどうするかと聞かれた。明日は朝が早いため朝食はいらない、どうもありがとう、といい部屋に戻ろうとすると、引き留められて、「あなたたち、日本人?」と聞かれた。チェックインの時にパスポートを見せているから知っているのではないかと思いながら「そうですが…」と返すと、顔をパッと明るくして「今娘が京都の大学院で勉強をしているの。」と言われた。思いがけない偶然に驚きながら「へえ、京都に!一体京都で何を勉強しているのですか?」と聞くと芸術関係の勉強をしていると言った。そして学部時代はノルウェーで過ごし、院から日本の大学に通っていると聞き、ずいぶん国際的な肩との印象を受ける。実家がホテルを経営しているから、自然と海外からの旅行客と接する機会が多く、自身も進路として海外を志向するようになったのだろうか?それは今となってはわからないが、思いがけない故郷との接点に少し胸温まる思いになりながら部屋に戻った。部屋では先ほどスーパーで買った夕飯というにはあまりに慎ましい軽食を摂り、シャワーを浴びて軽く衣類の洗濯をしてから眠りについた。明日の目的地はモンテネグロのブドヴァという港町である。
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