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【巨人の肩に立つ】自分を自由にする意思決定


✔︎以下の文章の原典

コテンさんの「民主主義の歴史」を参考に記しました。
※コテンさんが以下のような主張をしている訳ではなく、あくまで参考に記したもので記述内容の責任は当方にございます。


✔︎以下の議論を通じて何が言いたいのか?


・目的を持った人が集まれば、集団として意思決定することになる。
・声が大きい人の意見が通る、各自言いたいことだけ言って特定の人に決定と責任を押し付ける、あるいは皆んなの意見に配慮してて時間切れ、と言った事態になり、多くの場合、それぞれの心にシコりが残る。
・どのような意思決定が「良い」ものなのか、先人の知恵を借りる(巨人の肩の上に立つ)ことで、例え良い結果にならなくとも、その意思決定のプロセス自体は納得がいくものになると思う。
・例えば、一般意思と全体意思の違いを理解することは、簡単に多数決で物事を決める意味に再考を促す。
・また、そもそも民主主義国家に生きるとはどういうことなのか?ということが腹落ちでき、その一員として、どのように振る舞うべきか?ということにも考えを深めることができる。
例えば、ルソーの主張に従えば、投票行動が実は自分を自由たらしめるために必要なプロセス、という考え方について理解できる。
・そして、一般意思が言葉で語れないことを認識したときに、SDGsなど、一様に掲げる正義に果たして意味があるのか?一体だれの特殊意思なのか?という問いに向き合うことになる。

✔︎ダレイオス一世による理想の統治体制の議論


・ダレイオス一世は紀元前522年から紀元前486年にかけてペルシア帝国を統治した王。
・彼による民主主義の議論は、ヘロドトスの著作「歴史」に記録されている。
・カンビュセス2世による残忍な専制君主の後、ペルシア帝国の王位継承を巡り、ダレイオスと他の貴族たちが国の統治形態について議論を交わした。
・議論は大きく3つの立場に分かれた。

  • 民主主義: オタネスは民主主義を支持し、多くの人々に権力を分散させることで、権力の乱用を防ぐべきだと主張した。彼は一人の支配者による専制政治の危険性を指摘した。

  • 寡頭制: メガビュザネスは寡頭制を提案した。彼は少数の貴族が国を統治することで、最も賢明で経験豊かなリーダーシップを提供できると考えた。

  • 君主制: ダレイオス自身は君主制を支持した。彼は安定した統治と効率的な決定を行うためには、一人の強力なリーダーが必要だと主張した。

・最終的に、広大な領土と多様な民族を支配する必要性から、集権的な意思決定を行うダレイオスの意見が採用され、彼はペルシア帝国の王として即位した。
・はっきり言って、以上の議論はプリミティブなものであり、民主主義はその後以下に示す通り進歩したにもかかわらず、現代の民主主義に関する議論は、このダレイオスの議論とあまり変わらない。

✔︎古代ギリシャとローマにおける統治体制



・古代ギリシャの民主主義とローマの共和政は、それぞれ異なる政治体制を代表している。
・ギリシャの民主主義は市民の直接的な参加に基づいていたのに対し、ローマの共和政(レス・プブリカ)は、多数の利益を代表するというよりも、公共の利益を目指す体制である。
・ローマの政治システムは、特定の集団の利益よりも、共和国全体の利益を優先するという考え方に基づいている。この観点から、ローマからすればギリシャの民主主義は特定主体の利益を代表するに過ぎず、統治体制としては未熟なものと認識されていた。
・ローマ以降においても、歴史を通じて、民主主義はしばしば質の悪い政治体制と見なされてきた。
・この見解は、民主主義が必ずしも最も効率的または最も公正な政治体制とは限らないという認識に基づいている。これは、一般に民衆の教育水準がエリート層と比較して大きく落差があったことにも起因している。
・ゆえに、近代に至るまで、民主主義は不安定さや不均衡な権力分配の原因と見なされてきた。だからこそ、歴史上、現代の我々からすれば理解し難い君主制等一部のエリートによる統治体制が認められてきたとも言える。

✔︎ホッブズ、ロック、ルソーは民主主義にどのような貢献をしたのか?


・ホッブズは命、ロックは財産、ルソーは自由、という民主主義の基礎になる人の権利を主張した。

✔︎ホッブズはリバイアサンという概念でどのような主張をしたのか?


・個人が命を守ることから社会のあるべき姿を捉え直した。それまでは既存の組織や体制を前提とした議論を行なっていた。
・人は倫理を持つ存在ではなく、人は欲望に基づき動くものとした。ようは、人の行動とは外的環境に対する反応の連続が本質と見做している。逆にいうと、立派な人の存在は前提としない。
・その中で、人が1番大切にするものは自分の命を守ること。このために行動する権利が自然権。
・仮に、こうした人しかいない世界を考えると、万人による万人の闘争が発生してしまう。
・こうなると困ってしまうので、自然権に加えて、他者の自然権を守る自然法が概念として必要になる。
・自然状態においては容易に自然権を行使し万人の闘争状態になる。
・このために、第三者に自然権を渡し、闘争を防ぐ組織(共通権力、リバイアサン)を設立し、自然法を制定するインセンティブが生まれる。共通権力に自然権を委託する代わりに共通権力が自然法を制定・行使する旨の契約を各人と共通権力が交わすという考え方。

✔︎ロックは民主主義に対してどのようなことを主張したのか?


・人は機能しない、ホッブズが言うところほど共通権力を覆してもよい、とした。
・彼はデフォルトで闘争しない世界を想定した。つまり、神を由来とする理性、つまりそれぞらの自然権を守ろうとする各自の規範、つまり自然法が機能している世界である。
・そこから、固有の身体を持って労働により獲得した財産は個人のものになる、とした。
・本来、獲得した財産は農作物に代表されるように日持ちしないものが大半であり、いつかは消えるもの。
・ところが、貨幣が生まれたことにより、貨幣に変えれば永久に保持できることになった。
・結果として、貨幣を通じた財産の差分が闘争を引き起こすことになる。このため、自然権を守るために、共通権力が必要となった、とする。
・ようは、ホッブズはゼロベースの議論で、ロックは今ある政府ができた成り立ちの議論。
・つまり、政府は自由と所有を守るために生まれたのであり、当時の王権を正当化していた、王の権利は神に由来する、という王権神授説に基づくものでは、なかったことがポイント。
・そして、ロックは自然権を守るために生まれた共通権力がその機能を果たさないときには、打倒して然るべき、とした。

✔︎ルソーはトドメで何を主張したのか?


・ホッブズがいうところの共通権力、政治は、人々の共通の意思である一般意思を体現していなければならない、とした。
・逆にいうと、特定の集団や個人の意思である特殊意思に基づく政治は、人々の自由を奪っており、奴隷とも言える状況に置いている。民主主義とは遍く人々を自由にするものである。
・つまり、民主主義とは一般意思を体現した政府でなければ成立していない。
・人は、初期状態では1人で且つ慈愛に満ちた存在とした。
・そこから、法律により財産権が生まれ、貧富の格差が生まれると闘争が生じる。ここまではロックに近いところ。
・その際、闘争を収めるための共通権力が生まれるが、ホッブズ流の自然権の第三者への単なる委託では、自由ではない、とした。
・というのも、自己による決定でなければ、それは自由とは言えない、と定義したため。
・では、具体的にはどうすればよいのか?というと、個別の利害のための特殊意思、特殊意思の合算である全体意思ではなく、特殊意思を相殺しあった一般意思に基づく決定こそが、自己の自由を守る決定になる。
・そして、一般意思は、人を自由にする決定をすることが目的として機能する。
・だが、一般意思は言葉にできない。言葉にした瞬間、誰かの特殊意思になりうる。
・あくまで、ルソーは自由を守る原理を示しているのであり、実現可能、ということを言っているのではない。
・実態があるものではない、という意味で、民主主義とは信仰に近いもの。
・ルソーは、一般意思は徳の高い市民によって体現され、更に導き手となる立法者が現れる、とした。

✔︎以上をふまえて言えること、、、折角人類が到達した一般意思が、蔑ろにされているのではないか?


・ルソーが到達した一般意思は非常に示唆的で、明確に答えまでは辿り着いていないが、人類が、集団として意思決定するうえでの最良のヒントまでいきついているのだと思う。
・一方で、一般意思自体が言語化した瞬間、特殊意思として特定集団の利害に適うものになる概念であるため、歴史上、多様な悪用のされ方をしたところ。
・だからといって、この一般意思の概念が廃れた訳ではなく、依然として人類が行き着いた一つのメルクマールであることに変わりはない。
・人類に求められていることは、この一般意思の概念を、如何にして現実の社会で駆動させるか?という問いへの答えである。
・実は、現実社会においても、言語化できないが、それが正しい、自分を自由にする行いがあると思い、それは一般意思に基づく個人の営みなのだと思う。
・日本の例で言えば、明治維新で公議のため脱藩した武士達、第二次世界大戦中に特攻兵として零戦に騎乗した若者達、江戸時代で言えば井戸に落ちた子供を身を捨てて助ける惻隠の情も一般意思に基づく行動と言えるのではないか。一見自身の身を顧みない非論理的な行為とも思えるが、実はそうすることが公共の利益に資する自分の意思に基づく行動で、自分を自由にするものである、という解釈がありえるのではないか。
・ただ、言語化したものしか意思決定で正当化できないプロセス、例えば今の政治や上場企業の企業経営だと思うが、こうしたプロセスに従う限り、一般意思に従う意思決定に適うことはないことは、上述の通りである。となると、我々は生きながらにして無理ゲーに取り組んでいるとも言える。
・例えば、言語化した気候変動や脱炭素、ESGといったワードは、果たして一般意思なのか?
・本当に大切なことは、言葉にできない想いと、それに基づく行動である、ということを、言語化しないと気が済まない現代人は、よくよく考える必要がある。
・そのうえで、言葉にできない人類の一般意思は何なのか、言葉にはできないが行動で示すのが、本当の人類の知恵なのではないか?

・また、民主主義の名前のもと、大多数の国で行われている政治は、一般意思ではなく、特殊意思に基づき行われている。政党が存在すること自体が特殊意思の表れである。
・だからと言って政党がなくなれば、意見を揃えることが難しくなり、政治は成立しなくなる、前に進まなくなる可能性がある。
・ではどうすればというと、民主主義とは本来は一般意思に基づいていなければ、人を自由たらしめない、民主主義として成立しない、という恐れを持ちながら政治を進めていく、という慎重さが必要なのだと思う。
・民主主義を大切に思う有権者にできることは、そのような慎重さを持ち合わせた政治家を選ぶ、ということなのではないか。

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