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酷寒中国 敗北旅行 1995年冬 2.青島風光


「1.弁護的我」
「2.青島風光」(このページ)
「3.老朋友K」
「4.售票窓口」
「5.小姐慕情」
「6.冷蔵列車」
「7.大連寝起」
「8.直達特快」
「9.病魔来来」
「10.石炭咳痰」
「11.日本惨事」
「12.白旗掲揚」

2. 青島風光

 青島の海岸線には透明度の高い空気が密度濃く詰まっていた。

 じっさいに気温が低くて、空気を構成する分子間距離が短くなっていることは事実であろう。

 岩場には氷片が浮かんでいた。

 海水が凍るほどの気温なのである。

 だから堤防のコンクリートが太陽の輻射熱を吸収すると、その表面付近の空気分子は元気に飛び回る。

 背後の風景が揺らめくその現象を、我々人間は詩的に陽炎(かげろう)と呼んでいる。

 海水浴場の方で奇声があがったのでその方を見ると、異様に肌の白く萎びた老爺が、トランクス1枚の姿で海に突進しているところであった。

 たまたま防波堤のコンクリートを透かして見るかたちになったので、老爺は陽炎に揺れていた。

 それにしてもこの寒さでは、見ているほうが首を竦めて心臓停止を案じ、胸に手を当てたほどである。

 私と同じように驚いて老爺を見つめた中国人が他にもかなりいた。

 ふざけあう朋友同士、固い絆の親兄弟、密着する熱烈カップルなどは、一瞬に石化して、薄ら笑いでお互いの顔を見合った。

 人民たちは皆こざっぱりした恰好をしていた。

 そして青島の街自体も非常に美しかった。
 
 要所が石畳で整備されていて、朝でも昼でも夕でも、誰かがどこかの道を箒で丹念に掃いていた。

 私がさっき歩きながら喰ったニワトリの腿焼きの竹串でさえ、その辺に投げることを憚るほどの街衢であった。

 どうやら私は中国をみくびっていたようである。中国はどこも冴えない配色で埃っぽいと思っていた。

 小魚山公園の頂上に登ると、ドイツ建築の住宅群、アルミホイルをくしゃくしゃにしてから延ばしたような穏やかな碧い海が展開した。

 遠く、山の向こうには煙突が並び、工場があるようだった。

 青島がこんなにもすっきりした街であるのは、中国の特色のひとつである工場群を郊外に押しやったおかげかもしれなかった。

 親しげに話し掛けてきた中国人青年によると、煙突の手前の山々は全部耕地で、特にリンゴ畑が多いのだそうだ。

 人民たちは毛糸の帽子や羊毛のマフラーで顔を覆っていた。

 こんなに寒いのに戸外に出ている人が多い。
 市場通りなど、掻き分けるほどの人出であった。

 しかし私が温度計を見て寒い寒いと思っていても、中国人にはそうでもないらしい。

 包子(肉饅)を売っていたおばちゃんは、なに言ってんのよ今日は暖かいのよ、と言って笑った。

 氷点下3度。

 「青島は暖ったかいのよ!」

 おばちゃんは気前良く、包子を1コおまけしてくれた。

 私は市場の人出を見て、さっき海に突進した老爺を思った。

 中国北部の今は、どこも凍えているが、そのなかでは青島が群を抜いて暖かい場所であるらしい。

 現役を引退した老人が余生を送りたいと思うのは、ここ青島なのだそうだ。

 するとさっきの老爺は、中国の内陸の厳しい自然のなかからやってきたのかもしれない。

 念願の青島で暖気を吸収して、あたかもコンクリート表面付近の空気分子のように元気になり、海に飛び出したのだ。

 ーーーーー

 昼食に入ったレストランは、入口脇に大きな水槽が並んでいた。

 それだけで水族館として入場料を徴収できるのではないかと思うほどだった。

 ここが日本だったら、生け簀のある高そうな料理屋など私は怖じけづいているはずだ。

 だがここは物価の安い中国だ。私は日本人だから怖がることはない。

 胸を張って重厚な扉を押した。

 臙脂色の制服を着用したボーイが恭しく私を招き入れた。

 私は「ウム」と偉そうに真顔を崩さずに中に入る。

 たまにはこういう振る舞いをしてもバチは当たるまい。

 菜単(メニュー)は荘厳で、達筆な漢字が並んでいる。

 姿勢を正し、眉間に皺を寄せて数ページをめくる。

 だが、私はすぐに降参して「ウヒャヒャヒャ」と軟体動物になった。

 正体がばれたので貴族ごっこは辞めて、ボーイと共に「水族館」に行く。

 こちらが笑顔を見せると慇懃な店員も実に人なつっこくなった。

 水槽の生物たちをひとつひとつ指差して値段と料理法を教えてもらう。

 小型の扇貝(ホタテ)の牡蛎醤油炒め。

 1皿20元(240円)のものであるが、赤児の掌大の殻付き扇貝が花を開いたように、16個も積み重なって湯気を上げて出てきた。見栄えも香りも味も絶品であった。

 ソースがもったいなくて、皿を傾けてご飯にぶっかけて豪快に喰った。正体のバレている育ちの良くない日本人なので、気を遣うこともない。

 と、目の前を巨大スイカを抱えたボーイが通りすぎた。

 まさか海が凍る青島でスイカに出会うとは。私はスイカには偏愛の情を抱いていて、スイカには目がない。

 私の表情に気づいたのか、テーブル付きの少女がニコニコしつつ接近してきた。

 中国の南から送ってきたもので温室栽培のものではないらしい。

 この1月の寒い時候にスイカが実っている地方があるとは。

 中国という国の広大さを、あの緑色の球体が如実に講釈しているではないか。

 待つほどもなく、球体の8分の1がおしゃれにカットされて登場した。

 私は以前、1ヵ月間の夏の中国で、累計8個のスイカをひとりで喰った。

 市場で丸ごと仕入れてきたそれを半分に割り、さじで掬って喰い、溜まったおつゆをジルジル音をたてて飲んだものだ。

 だから装飾されて出現したスイカを見たとき、スイカの気持ちが分かるわけでもないが、出世したんやね、と心の中で話し掛けた。

 とても旨いスイカであった。上機嫌でスイカを齧っていると、傍らにいた少女が

「お、おいしいでしゅね」

と日本語を話した。余程私が嬉しそうに見えたらしい。

 孫波さん、20歳。彼女は私のノートに「そんは」ときれいにひらがなを書いた。額の生え際が円くて、まだ子供のように見えた。

「家は青島なの?」

 名前や歳や家の所在をたて続けに質問するとは、腹が満たされて助平心が芽生えたオヤジのように思われるかもしれないが、そうではなく、そのくらいの中国語しか話せないからである。

 それに、中国ではプライベートに関する質問をすることは、極めて礼節にかなっている。相手にそれだけ興味を持っているということの証になるらしく、じっさい私のつたない中国語でも、いつもみんな喜んで答えてくれるのだった。

 どこかの国では「馴々しい」「あんたの知ったこっちゃない」と一蹴されることかもしれないが。

 ものの本によると、むかし清朝の重臣であった李鴻章が英国ヴィクトリア女王に拝謁したとき、彼は開口一番女王のトシを伺ったらしい。
 周囲を驚倒させ、かなりの物議をかもしだした事件になったらしいが、これも中国方式で質問したまでであろう。

 なるほど中国の教育テレビの英会話教室を眺めていると、みんな会った瞬間に「あなたは何歳ですか」という質問を発している。
 私も都合のいいことだけは郷に従うのである。

 このレストランに務めているのだから孫波さんは青島在住に決まっているが、彼女の故郷はなんと哈爾濱で、2ヵ月前に哈爾濱から来たところだと言った。

 すると常夏の雲南省で生まれ育ったこのスイカは、ここ青島でお化粧されて、厳寒の哈爾濱生まれの女の子に見守られつつ、あやしげな異国の男に喰われていることになる。まずは幸福なスイカの一生ではないか。

 孫波さんは寒いところで育った女の子らしく、皮下脂肪が多くて、頬は青島の市場にあるリンゴのように紅かった。

 私はこれから哈爾濱へ行くことを白状すると、孫波ちゃんは「あんなところに行くのですか」と目を丸くした。

 「3. 老朋友K」に続く

目録:「酷寒中国 敗北旅行 1995年冬」


「1.弁護的我」
「2.青島風光」(このページ)
「3.老朋友K」
「4.售票窓口」
「5.小姐慕情」
「6.冷蔵列車」
「7.大連寝起」
「8.直達特快」
「9.病魔来来」
「10.石炭咳痰」
「11.日本惨事」
「12.白旗掲揚」



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