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05_初山別みさき台公園キャンプ場~稚内の小屋(その2)

Nong Sukjaiの「ピザ屋のバイクでツーリング」 (2002年・夏・北海道)~
                前の話

北半球ど真ん中・・・だとさ

 前ページに出した『北半球ど真ん中・北緯45度通過点』の写真の奥に、トンネルの抜け殻のようなものが道路にかぶさっているのに気づいた人がいるかもしれない。

 これはパーキングシェルター(直訳すると駐車避難所)と呼ぶものらしくて、風雪や地吹雪をさけて一時的に避難する場所である。
 風にとって障害物が一切ないサロベツ原野だけに、視界がほとんどきかなくなる冬の厳しい天候は命にかかわることもあり、このような避難場所も必要というわけである。
 
 また、この道道106号「稚内手塩線」は、その両端の町以外にはガソリンスタンドがない。

 いっときにガソリンが30や40リットルも入る車ならともかく、7リットルしか入らないぼくのバイクのような場合、ガソリン残量を意識しながら走らないと、ガス欠もおそろしい事件となってしまう。

 北海道の雄大さを感じるひとつかもしれない。

 もっとも手塩-稚内間は50km程度である。

 ぼくの「ピザ屋のバイク」は北海道では燃費(1リットル当たりの走行距離)が35kmを超えているので、じつはガソリンが2リットルもあれば手塩から稚内まで走り通してしまう。

 なんて環境に優しい乗り物なのであろうか。

パーキングシェルター

 さて、ぼくはそのパーキングシェルターに入った。

 もっとも、入ろうという意志がなくても、この道路を走る人は嫌でもこのシェルターの中を通らねばならないのだが。

 シェルター内の駐車スペースにバイクを停めた。

 エンジンを切ると、雨風の音も聞こえずに、静寂に包まれた。

 雨の降らない世界がなんてステキなんだろう、と思った。

 ぼくはイヌのように身震いをして、雨合羽に付いていた雨滴を飛ばした。

 しばらく休んでから、また延々サロベツ原野を走った。

 巡航速度は35km/hのままである。
 
 今日は目的地まで35km/hでおとなしく走ろう。
 こんなにのんびりした速度でも、いつかは必ず目的地に着くのである。

 スピードを上げたり、早く着くことだけが芸ではないし、第一こうしてのんびりと走っているとぜんぜん疲れない。

 車でも何でもやたらとスピードをあげると、それだけ緊張感が高まるので、疲労度は指数関数的に増加するはずである。
 
 ぼくなんて、椅子に座って右手首を少しだけ捻っているだけである。

 たったこれだけの仕事で、このバイクは、のんびりとではあるが、一歩一歩着実に目的地に連れて行ってくれている。

 しかも、ぼくのバイクは、座ると背筋がほぼ直角に伸びるようにできている。
 
 椅子もそうだが、長時間疲れずに座る方法は、背筋を直立させることである。
 これが最も背骨や筋肉に負担をかけない。

 よくある高級ソファや車のシートは、座った瞬間さえ心地よく感じるものだが、実は非常に疲れる姿勢を人間に強いているのである。
 それを証拠に、そういった一見気持ちよさそうな椅子で寝てしまうと、必ず体のどこかが痛くなる。

 そういえば、いつか知人に自動二輪のオートバイにまたがせてもらったことがあるけれども、ひどく体を前傾にして、あたかもタンクを抱きかかえるような姿勢になった。

 ライダーという人種は、あんな妙ちきりんな姿勢で何時間も高速で運転して楽しく感じるものなのであろうか、と思った。

 だいたいぼくには股間のモノ(宝物)が押しつぶされる感覚にも耐えられそうもなかった。

 言っておくけどぼくの宝物の大きさはきわめて標準で人並みである。
 馬並みではない。
 ともかく、あのタンクを抱えさせる姿勢を強要する自動二輪には、健康上、あのあたりに適度な凹みと風通しが必要であると思った。

 その点、法定速度と安全さえ守っていれば、ぜんぜん疲れずに、どこまでも走ることができる乗り物、つまりぼくの「ピザ屋のバイク」は、実はツーリングに最適な乗り物であることを証明できる日も近いと言うわけである。

 たぶんぼくが北海道にいる間に、その証明ができるであろう。

 大平原の中では大して頭を使うこともないので、まあ、こういうくだらないことをいろいろ考えてしまうのであった。

いよいよ稚内市

 バイクはついに日本最北端の市、稚内市に入った。

 しかし稚内市に入っても、永遠に続くと思われるほど広漠とした風景は変化しなかった。

稚内市だけど、広漠たる平原が続く

 いったいこの先に何があるというのだ。ほんとうにヒトが住む町があるのだうか。

 このような土地に最初に入った開拓者の精神と肉体は、かなり強靱であったに違いない。

 風景のいたずらで、ぼくの頭はついに過去をさまよいはじめた。

         *     *     *

 高校卒業直後の春先に生まれて初めてひとりで北海道を旅したとき、大阪の自宅を出てから青函連絡船で津軽海峡を渡って、すべて鈍行列車で最終目的地の稚内までやってきた。

 大阪出発後、大垣夜行、仙台一泊、青函連絡船の夜行便、旭川で寝て、5日目の夜にやっと稚内に到着した。

 当時あった20日間有効の「北海道ワイド周遊券」は急行列車の自由席まで乗れる切符だったのであるが、そのころはまだ、戦後に作られた雑型客車(かつて蒸気機関車に牽かれていた茶や紺色の外装で、内部は木造の古めかしい客車)の長距離鈍行列車が、仙台-青森、函館-旭川、旭川-稚内に残っていた(その少し前までは上野-仙台、常磐線経由の雑型鈍行列車もあったのだが、惜しいことに、ぼくが高校卒業と同時に消えてしまった)。

 ぼくはその客車列車が大好きだったのである。

 その雑型客車には、動力や空調機や、また扉を遠隔で開け閉めする装置がない(つまり扉は手で開け閉めする)ので、駅に停車すると物音一つしなくなり、外の鳥の声や風の音や水の流れる音などを楽しむことができた。

 さらに、後続の優等列車や対向列車を通過させるために、小さな駅で長時間待避することも多かった。

 そんな長距離鈍行列車には、あきらかに外界と違うゆったりとした時間の流れがあった。

 編成が長くていつもすいていてゆったりとしていたので、窓から首を伸ばしたり、うたた寝をしたり、開けっ放しの扉や最後尾の幌から直接風を受けつつ長い間景色を眺めたりして、車内では限りなくのんびり過ごした。

 今になって思えば、たいへん貴重な時間を過ごしたものである。

(残念ながら今は日本全国どこを探しても、そんなにのんびりできる列車は走っていない。ちなみに台湾にはまだあるが。)

 津軽海峡を渡って北海道に上陸すると客車の窓は二重になっていて、本州との客車の違いに感激した。

 客車列車はその長い編成の割には乗客が少なかった。

 鈍行列車でも次の駅までが時には半時間と長いので、手持ちぶさたで人恋しくなったらしい車掌さんがぼくの席に座って、四方山話に耽ったりすることも珍しいことではなかった。

 朝早く出発する客車は外気と同じくらいに冷えているのだが、先頭のディーゼル機関車から送られてくるスチームで、窓下と座席の下がじわじわと暖まってくるのだった。

 それがまたトロンと眠気を誘うほど気持ちがよかった。

 客車内が暖められるときに発する、スチーム管が膨張するカンカンカンという金属音がまた、北の国の旅情をかき立ててくれるのであった。

 そんなふうな旅を続けてようやく最果ての稚内に着いた時の気分は格別で、旅館の畳の上に日本地図を広げて、今自分が大阪からどのくらい離れているのかを実感したものだ。

 当時はその遠さに、大げさではなく、恍惚の気分になったものである。

 高校生ぐらいの年齢としてのぼくの世界の広さでは、大阪-稚内はやはりとてつもなく遠かった。

 そんなこんなの出来事がいっぱい思い出される「稚内」という言葉の響きが、ぼくにはとても心地よい。

 キザだが、稚内は、ぼくの青春の1ページなのである。

 ゆっくりのんびり走っているので、まだぜんぜん風景は変わらないが、あとしばらく走れば、思い出の稚内に到着するはずだ。

 今回は、自分の意志で動かす自分の乗り物に乗ってやってきたのだ。

 わっかない、わっかない、という言葉の響きが頭の中でぐるぐるぐると巡る。

 ところで「わっかない」は、なぜ「稚内」と書くのだろうか?

 実は非常に難しい漢字である。

 せいぜい「チナイ」か「チウチ」などと読むのが普通であろう。
 これがなぜ「ワッカナイ」なのであろうか。

 稚内は北海道を代表する地名のひとつだし、もともとアイヌがつけた地名なので、いまさら変に思う人は少ないかもしれない。

 しかし、よく考えたらかなりへてこりんな当て字である。

 ぼくが当て字の作者だったらきっと「輪内」などと決めたに違いない。

 しかしこれだとなんだかマヌケである。やっぱり「稚内」のほうががカッコいい。

どこまで行っても広漠な平原

次は 06_初山別みさき台公園キャンプ場~稚内の小屋(その3) に続く。

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