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【短編小説 オーストラリアのハウスハンティング 4】 朋美の幸運
私とマーティンは家を購入するために過去2ヶ月必死に頑張ってきた。だが、今晩でそれが遂に終わる予感がしていた。フレンチ・クリークで売りに出されているユニットが、昨日の時点でオークションによる競売から入札による競売に変更され、今朝私たちは市場価値から考えて十分な額をオファーし結果を待っていたのだ。私たちのオファーが受理されれば夕方5時過ぎにエージェントから連絡があるはずだった。電話が待ち遠しかった。
しかし、6時過ぎになっても連絡は来なかった。もう結果を受け入れるしかなかった。私たちはまた家を購入できなかったのだ。そして、簡単な夕食を無言で食べ始めていた。
食事中、テーブルに置いていたマーティンのスマホがブルっときた。その画面を見た彼はつぶやいた。
「エージェントからだよ。今更だけど」
マーティンは面倒くさそうにスマホをタップし、話し始めた。最初は、ほぼ相手が一方的にしゃべっていて「Oh, ya」とかマーティンは相槌を打っているだけだった。ただそのトーンが突然変わった。
「なんだって!そんなことがあるの?それなら我々もオーナーと話をしたかったよ」
電話が切れて、顔を上げたマーティンは「はー」とため息を漏らした。
「あり得ない。俺たちがオファーした額の方が高かったがオーナーは2番目に高いオファーを選んだそうだ」
「えー、どういうことよ」
私は大きな声を出してしまった。
「2番目のオファーを出した人はオーナーとどこかで知り合ったみたいだ」
「それで自分を選んでくれるようにオーナーに頼み込んだということ?」
「どうもそうらしい」
「何よそれ、出来レースに付き合わされたってことじゃない。そんなのこと聞きたくなかったわ」
「全くだ。でももう決まったことだ。忘れるしかない」
マーティンは冷蔵庫からIPAの缶を出してプシュッと開けた。
「私にも缶ビールとってよ。悔しい。納得できない」
マーティンと私は食卓の食事をそのままにして、狭いベランダに置いた椅子に移動した。日暮までもう少し時間があったが、空は雲で覆われていてうす暗かった。IPAの苦味が今の気分にぴったりで、缶のデザインもいまいましく思えた。
◇
私は朋美。日本からオーストラリアにやってきて13年目だ。こちらに移住してナースの資格をとり、老人介護ホームで働いている。パートナーのマーティンとは職場で知り合い、結婚はしていないが、もう付き合って5年以上経っている。
去年の暮、マーティンは突然、不動産物件を共同で買わないかと言い出した。
「不動産価格は上がる一方だ。今買わなければもう一生買えなくなる。お互いの貯金とローンで買える物件を探してみないか?」
「私たち結婚してないよね」
「またその話?もう5年も一緒に住んでいるんだから、法律的には結婚しているのとほぼ変わりない、って言ったでしょう」
「それでも私には大事なの」
でも私はそれ以上言うのをやめた。また不毛な喧嘩になるのがわかったからだ。マーティンは続けた。
「とりあえず、どの程度のローンが組めるか銀行に相談するだけでもいいからさ」
確かに自分の家は欲しい。今住んでいるアパートのオーナーにクレームを言ってもほったらかしにされたままになるのに、家賃だけは確実に取られていく。そんな私の欲や不満を巧みに利用され、結局不動産を探し始めたのが冬の初めごろだった。私たちの予算を考えると、古くて安い物件を探すしかなかった。でも私たちはまだ若いので、これからちょっとずつ修理していける。
そして、何件か良さそうな物件を見つけオークションに挑戦したが、いずれもうまくいかなかった。投資目的と思われる建設業者たちにいつも持って行かれてしまったのだ。そして、冬が終わり春になってしまい、このままでは埒が開かないと考え、私たちは方針を見直すことにした。当初一軒家を考えていたが、相次ぐ失敗から少しグレードを落として広めの集合住宅であるユニットにターゲットを変えたのだ。
今回のフレンチクリークの物件はグレードを落とした後の最初の物件で、市場価格と我々のオファーの額から考えて正直これで終わると思っていた。が、結果は違っていた。いや、少なくともオファーの額で勝つことはできたのは予想通りだった。しかし、買えなかった。
◇
また振り出しに戻った私たちは、次の日からまた物件探しの日々になった。それから数日後、不動産のインターネット・サイトでちょっとおしゃれな一軒家が目についた。場所はシティからかなり離れているニューフラム地区だ。フレンチクリークのようにいい響きのするサバーブではないが、生活するには不便ではない。多分、工場とか車のディーラーとかが近隣に集まっている地区なので市場価値が低く、私のサーチに引っかかってきたのだ。ただし、インターネットの写真だけを見れば可愛い並木道沿いに建っているおしゃれな家だった。私たちは早速インスペクションに行ってみた。
想像以上に良かった。3ベッドルームでキッチン・ダイニング・リビングはオープンプランで十分な広さがありゆったり生活できそうが気がした。
「この物件どうする?」
インスペクションが終わって私はマーティンに聞いてみた。
「朋美が『ニューフラムに住んでいる』って他人に言うとき嫌な気持ちにならなければ僕は構わないよ。自慢できる居住区ではないからね」
マーティンはいいところを突いてきた。私は高級住宅街に住みたいとは思っていないが、少し自慢できそうなサバーブに住めればと密かに思っていたのは事実だ。
しかし、もう背に腹は変えられなかった。私は言った。
「サバーブの名前なんかどうでもいい。ここのオークションに挑戦してみようよ」
「よし、決まりだ。今度こそ落札できるいいね」
そうなのだ。いくら人気のないサバーブとは言っても、こんないい物件ならオークションに多くのバイヤーが来そうだ。
オークションの1週間前になり、「オークションには本当に来るのか?」とエージェントから確認の電話が来た。こう言う確認はこれまでもあったが、今回は少し違っていた。その後も毎日確認の電話が来たのだ。不審に思ってネットの情報をみると、同じようなタイプの物件がその週末に一斉にオークションにかけられることがわかった。この週末だけかもしれないが、少し買い手市場になっているようだった。
私は祈った。
「どうぞ、強いバイヤーは別のオークションに行きますように」
オークションの日が来て、オークションの会場すなわち私たちが買いたいニューフラムの物件に行ってみるとその願いは少し届いたことがわかった。野次馬は沢山いたが、実際にオークションに参加したのは我々と一人で来ていた70歳近い男性だけだった。その上、彼は数回レイズしたがすぐにやめてしまった。そして我々予想を下回る価格でニューフラムの物件を落札したのだった。
野次馬の一人の女性は「こんな値段なら自分も参加すれば良かった」と言っていたし、もう一人の女性は「あなたたちは良い買い物をしたね」と祝福してくれた。また「君たちは実際にここに住むのか?」と聞いてきた子連れの同年代の夫婦がいた。同じ通りに住んでいる家族らしく、親しくなれそうな気がした。ニューフラムは私たちの未来になったのだ。
契約のため、また家に入ると改めて一戸建の広さが感じられた。これでマーティンと場所の取り合いで喧嘩になることもないだろう。隣との共有の壁もないので騒音問題に悩まされる可能性も低い。
契約書にサインした私たちは賃貸の自宅に戻った。改めて、自分たちが狭い空間に押し込められていることがわかった。でもそれももうすぐ終わりだ。私たちはベランダでシャンパンを開けた。この日のためにMoetを買っておいたのだ。
フランスの美酒に酔いながらフレンチ・クリークの物件で騙し討ちにあったような経験を思い出していた。もしあの時オファーに勝っていたら、今日のような良い家には巡り会わなかった。今から考えてみると、弱気になって狭い物件にターゲットを変えたが、フレンチクリークのユニットはやはり一人用だという気がした。あの日、あの物件をさらっていった人には文句の一つも言いたかったが、今日はお礼を言いたかった。
そして、マーティンの母親が言っていたことも思い出した。
「朋美、失敗したって大丈夫よ。あなたの理想の家がきっとあなたを待っているはずだから!」
あの時は全く信じる気にはなれなかったこの言葉も、今では名言としか思えなかった。夕焼け色に染まったユーカリの木を眺めながら、私たちはこれまで失敗したオークションやオファーを一つ一つ思い出しながら笑っていた。明日からは夏時間になる。
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