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ペレストロイカ時のブルガリア (1)

 一昨年2月に始まったウクライナ戦争や昨年10月に始まったイスラエル・ガザ戦争は両方とも終わる兆しがない。現在からははとても信じられないことだが、世界から戦争がなくなりやがてみんなが平和に暮らす世の中がやってくるかもしれないと、少なくとも自分が、期待した時期があった。冷戦末期のペレストロイカの時期である。その当時、ソビエト連邦の影響下にあった旧東欧諸国の一つブルガリアを旅行したことがある。一泊だったので通過したのに過ぎないが、初めて訪れた共産圏の国で、東西間の緊張が解けつつある雰囲気を感じることができた。その時の自分の期待感をうまく活字にできないかと思い、この記事を書くことにした。

 1988年の夏、私は一人でギリシャ・トルコ・ブルガリアを3週間かけてバックパック旅行をしていた。酷暑のギリシャ・トルコの旅程を終え、私はその晩イスタンブールからベオグラード行きの寝台列車に乗りこんだ。

 乗り込んだコンパートメントは3段の寝台が2列作れるようになっていた。よくあるタイプである。同じコンパートメントにはロシア人がいて英語で話ができたが、他の人間はヨーロッパ人の顔をしていたが英語を話さず何人かわからなかった。
 イスタンブール出発から数時間後、ブルガリア国境に到着した。周りは真っ暗で何も見えない。制服を着た男が回ってきて、パスポートのチェックをして行った。「意外とあっさりしているな」と思ったら、いつまで経っても出発しない。別の人間が来て、2度目のパスポートチェック。今度こそ出発と思ったが列車は止まったまま。また別の人間が来てコンパートメントの椅子を全部ひっくり返され、座席の下をチェックされた。最後にパスポートは取り上げられてしまった。全員列車から出され駅舎に並ばされてやっとスタンプを押したパスポートを返してもらった。ここが自由経済圏ではなく敵対している共産圏だということをいきなり目の当たりにする羽目になった。しかし、とにかくブルガリアに入国できた。
 その後、寝る準備に入った。要するに、昼間用の座席を夜用のベッドにアレンジする作業だ。みんな手慣れていてすぐに終わった。自分は一番上のベッドになった。多分、他の人は暑いのが苦手なのだろう。
 この夜行寝台列車ではよく寝ている間に荷物が盗まれると聞いていた。手口はコンパートメントのドアを少しだけ開けてカギ状のフックがついた金属の棒を挿入し床に置いてあるバッグを引っ掛けてとるというものらしい。自分の寝台は一番上だったので泥棒もここまでは手がでないだろうと思ったが、用心に越したことはないので夜はバックパックを抱きしめて寝ることにした。
 次の朝、隣のコンパートメントが騒がしい。そこに一人日本人がいて、昨晩泥棒の手口を教えておいたのだが、本気にしていなかったらしく小さなバッグを床においたまま寝てしまい盗まれていた。パスポートは別のバッグに入れていたのが不幸中の幸いだった。彼は前にもフェリーに乗ったとき、眠くなるコーヒーを飲まされバッグを盗まれたことがあるらしい。どうしてその時学ばなかったのか。

 ソフィア駅には午前中の遅くない時間に着いた。降りるとすぐにまた共産主義の洗礼にあった。ブルガリアの通貨はブルガリアの外にはないので、当然通過を両替しなければならなかった。予想通り両替所は長蛇の列だ。窓口が2つあり、片方に並んだ。すると自分が並ばなかった方の列だけが進んでいき、こっちは止まったままだ。我慢して20分ぐらい待って、自分の列が動き出しもう少しと思ったとこで、窓口の女性は何も言わずにスクリーンを引いて窓口を閉めてしまった。初めはよく呑み込めなかったが、とにかくこっちの窓口はしばらく再開することはないことが分かった。頭に来たがここは共産圏なので文句は通らない。しょうがないのでまた別の長い列に並びなおさねばならなかった。小一時間かかりやっとブルガリアの通貨を手にした。なんでも時間がかかる。

 宿を確保するため町に出た。ホテルを紹介してくれるのは国営の旅行代理店しかなく、そこまで路面電車で行かなくてはならない。英語が通じないので運転手にどうやって行き先や料金を聞いたらいいかまったくわからなかったが、まわりのバックパッカーに付いていきなんとか国営旅行代理店にたどりついた。
 予想はしていたがまた長い行列が待っていた。待っているうちに、ソフィアではホテルの数はとても少ないと聞いていたので、だんだん不安になってきた。その不安は的中して、自分の番が来る前にホテルはもうないと職員に言われてしまった。ただそんなことはよくあることらしく、一般市民の中に自分の家を旅人に開放しているところがいくつかあるらしく、その場所が示してある地図をもらえた。
 しかし地図を見ても一体、ここからそれらの場所にどうやって行くのかさっぱりわからず途方に暮れてしまった。行くところを決めた人は、少しずつ立ち去って行った。ある若い西洋人のカップルと目が合い、彼らは自分を手招きした。一緒にどうだという意味だ。「ありがたい」正直そう思った。通りに出て、男の方(アメリカ人だった)はタクシーを拾い始めた。なかなか捕まらない。空車でもとまらない。そのうちしびれを切らしたヤンキーは車の前に立ちはだかり無理やり止めた。さすがアメリカ人は押しが強いと感心した。
 そして我々は郊外にある民家を開放している家に辿り着いた。そこを訪ねると、女主人が出てきた。愛想はいいが英語が話せない。困っていたら、フランス語なら話せることが分かった。カップルの女性の方はイギリス人だったが、幸運にも彼女はフランス語が話せた。そして、彼らと自分の分で2部屋を無事確保することできた。これで今日寝るところが見つかった。

 その後、食事をするため彼らと一緒にまた路面電車で町に戻った。観光客が集まる広場にオープンカフェ形式の店があり、そこで食事を注文した。自分は定食のようなものを注文したが、彼らはいろいろ調べた揚句、サラダしか注文しなかった。彼らのガイドブック(多分ロンリープラネットだったと思う)では、肉は腐っていることが多いのでやめておいたほうが無難と書いてあるらしかった。自分はとてもお腹がすいていたので、そう言われても後悔はしなかった。そしてお腹も壊さなかった。ただ食事している間に広場に面している建物の2階から、女性がバケツで水を捨てたのには面食らった。

 昼食(?)後、彼らと別れて自分だけで観光に出かけた。ソフィア駅の近くの温泉や、ブルガリア正教会、もちろんレーニン像も見た。たまに若者の集団が闇両替を持ちかけて来た。もちろん違法ということもあるが、そんなに買う物もないと思えたので相手にしなかった。
 夏の気温であったがギリシャやトルコに比べるとさわやかで散歩を楽しんだ。町に出て分かったが、旅行者だけでなく一般人も行列を作っていた。最初見た行列はアイスクリーム屋だった。おじさんが丸い穴があいた木製の箱に長いへらがついた棒を入れてかき混ぜている。手作りのアイスクリームだ。そこに足を止めたが、結局アイスクリームは買わなかった。

 街の一角に壁新聞が貼ってあり、その前で人が集まっていた。数年前からペレストロイカが進行し情報公開が進んでいて、この国の将来に関する情報が書いてあるのだろうか。ブルガリアは東欧諸国の中でも政治的にソビエト連邦に近い国だ。ペレストロイカの影響は確実にこの国にもきているはずだ。

 ライフルを持った兵士が街のいたる所に立っている。街の写真を撮りたかったが、偶然軍事施設が写真に映り込んだりすると面倒なことになるような気がしたので、撮るのはやめておいた。
 土産物を買いにデパートに入ったみた。食品売り場に行ってみたら驚いた。首都だというのに大した食品が置いていないし、肉は異臭を放っている。冷蔵庫のコンプレッサのパワーが小さすぎるのか、または冷蔵していないかもしれない。ガイドブックで食べるなと言ってるのも納得できる。ただし、工芸品は安くて質の良いものが揃っていて、ハンドメイドのテーブルクロスなどを購入した。
 宿に戻った時はまだ夕方だったが、睡魔が襲ってきて夕食は食べないでそのまま就寝してしまった。昨晩の寝台列車ではあまりよく眠れなかったせいだろう。誰かがドアをたたいたような気がしたが、疲れていて起きられなかった。

(つづく)

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Tomo @ 🇦🇺
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