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【短編小説 オーストラリアのハウスハンティング 1】ケイトのハウス・オークション

 だいぶ春めいてきたある土曜日の朝、人気のサバーブであるイーストウッドで売り出された物件の前には多くの人が集まっていた。オークショナーは声高々にこの物件がいかにお買い得かどうかを説いている。
「このサバーブはシティに近いにもかかわらず緑が多く静かです。ショッピングモールは至近で歩いて3分、近くにはパブ、カフェ、ブティックがありご家族にも独身者にも申し分のない環境です」

 今日は先週に続いてのオークション挑戦だ。今日こそ終(つい)のすみかをものにしたい。もっと公園に近ければとか、もっと築年数が浅いとか、ちょっと広めのキッチンが欲しいとか、色々と小さな不満はあるけれど、今の私の予算内で買えるのはこのユニットが精一杯だ。

 私の名前はケイト。私は検眼医としてキャリアを積んできたが、もう歳に勝てず今年いっぱいで引退するつもりだ。これまで車でシティまで1時間弱かかる村の一軒家に住んできた。電気技師だった夫は庭付きの家のメンテナンスをしてくれていたが、一昨年癌で亡くなってしまった。その村は気に入っていたけど、将来のことを考えてもう少し生活に便利なところに引っ越すことにしたのだ。その家でも車を使えば不便ではないのだが、10年後に同じ車中心生活ができるとは限らない。それどころか別の車、すなわち車椅子中心の生活かもしれない。

 都市部の不動産が爆上がりしているので、早く決断しないと手遅れになるとエージェントから急かされ、家の中をきれいにして大急ぎで売りに出した。40年近く働いてきたのに、家を買う資金の大部分は自宅の売却益である。働いて貯めたお金よりも、昔買った家の値上がりによる利益の方が大きいのだ。「私の労働は一体何だったのだろう」と思う一方、「昔、無理をしてでも家を買っておいてよかった」とも思った。

 オークションの会場はすでに人でごった返しているが、実際にオークションに参加しているのは私を入れて4組だけだ。オークションに登録した人はレイズするときにオークショナーに見せる大きな番号がついたカードをもらうので見渡せば誰がオークションに参加しているかはすぐわかるのだ。

 私の左前方にいるのは颯爽とBMWで乗り付けてきた女だ。いかにも高そうなスーツを着ていて、仕草も上品だ。若作りしているが、多分年齢は60歳に近いだろう。トヨタに乗っている私よりだいぶ裕福に違いない。彼女は本当にこの物件に住むんだろうか。投資のためか、息子か娘のために買うか、あるいは孫に会うために都会に拠点が欲しいのかもしれない。厚化粧のせいで表情が乏しく本気度は読めない。

 私の後方には中国人家族がいる。通常中国人は安っぽい服を着ているが実は金持ちで手強い。ただし、彼らは10歳位の息子に番号カードを持たせている。これは本気度が低いと見た。中国人にはどんな物件でもとりあえずオークションに参加する者がいるらしい。ちなみにオークションの参加料は無料だ。しかし油断は禁物だ。安心させておいて、実は本気なのかもしれない。

 もう一人はオークショナーの正面にいる上下を紺色のスーツで固め、無精髭をはやした仕事人のような中年男性だ。さっきオークショナーと歓談していたので、この業界の人間だろう。おそらくは、代理でオークションに参加しているのだ。自分でオークションに参加するのが嫌な人がいて、そういう人は彼のようなエージェントに頼むのだ。私のような年配の女性に多いらしい。エージェントを使うということはその雇い主がかなり本気だという証拠だ。今日最も手強いのはこの男に違いない。

 このユニットがネットで公開されたときに売主がつけた参考値段は55万ドルだった。オークションの最低落札価格はその1割増しのことが多いので60万の可能性が高い。私の郊外の家はエージェントによれば最低でも55万で売れるはずだ。そして、この時のために取っておいた約20万の投資ファンドを解約した。老後の資金、税金、法律事務所に支払う手数料を考えると67万が私のギリギリの最高額だ。それよりも高くなれば諦めるしかない。

 オークショナーの長い演説がやっと終わり、「最初に値段をつける人はいませんか?」という言葉とともにオークションが始まった。少し沈黙があったが、まずBMWの女が55万をつけた。想定内の範囲だ。私が番号カードを素早くあげると、56万になった。BMWの女はすぐにレイズして57万になった。私もすかさずレイズして58万になった。これが何度か繰り返され、64万まできた。ここでBMWの女は長考に入った。「よし。この女には勝てる」私は頭の中だけでニンマリした。

 しかしその女は簡単には諦めなかった。「5千ドルだけあげていいか?」とオークショナーに聞いて、それが許可され64.5万になった。私はすかさず65万にレイズした。BMWの女は再び長考。前回より長い。オークショナーが3度コールすると私が落札したことになる。プロレスリングのカウントみたいな感じだ。そして、彼は最初のコールを行った。しかし2度目のコールはなかなか行わず、物件がいかに素晴らしいかまた言い始めた。「もうそれはいいから早く次のコールしてよ」と思ったが、口には出せない。

 ここで仕事人風の男は会場から立ち去ってしまった。「やった。あいつは降参した」あとは息子が番号カードを持っていた中国人ファミリーだけだ。「今日は行けるかも」と期待が高まった。すると突然、子供の持っていたカードを大人が取り上げて前に出てきた。「まずい。あいつらが参戦してくる」と思った瞬間、中国人の親は65.5万にレイズした。BMWの女は興味を失って空を見上げていて、もはやオークションに参加していなかった。

 私は66万にレイズした。自分の限界までもう1万しかない。中国人は家族で話し合っている。中国語なので何を話したのかわからないが、66.5万にレイズした。私は祈りながら最後のレイズ67万を入れた。中国人ファミリーはまた長々と家族で話し合っている。すると、一家の長のような額の広い50代と見られる男性が甲高い声で「ノーモア」とオークショナーに叫んだ。彼はファミリーの中で決定権を持つ人間であることは明らかだ。「やった。彼らも降りた。あとは3回のコールを待つだけだ。私は勝った」
 と思ったその時、仕事人がゆっくり大股で戻ってきてカードを上げて67.5万にレイズした。信じられなかった。「嘘だ。あんたやめたんじゃなかったの?」私は悔しくて予定していなかった68万にレイズした。しかし仕事人はすぐに68.5万にレイズした。「もうダメだ」私は観念した。

 その後、3度のコールが今度はなぜか速やかに行われ仕事人が落札した。悔しかった。仕事人と目が合うと、彼はこっちへ歩いてきた。
「郊外に住んでいる老夫婦から頼まれていたんだ。旦那の方は足が悪く、ここは車椅子で行けるモールが近いので是非欲しかった。あんたも次で決まることを願っているよ」と言われた。「いなくなったので降りたと思ったよ」と言ったところ、電話でクライアントと最後の確認をしていたとのこと。なれている人間だと、オークションの終盤でも電話する余裕があるらしい。さっきオークショナーと話していたのは「電話する時間をくれ」と頼んでいたのかもしれない。ズブの素人の私は勝ち目がなかったのだ。

 「あーあ。またダメだったか」また初めからやり直しだ。とにかく資金を失ったわけではないので、また頑張るしかない。終のすみかを見つけるのは簡単じゃない。今晩また親友のリズに愚痴を聞いてもらおう。私はスマホでリズの顔をタップした。

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Tomo @ 🇦🇺
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