呼称から想像するD/s、主従についての考察深度

今は鎮静化したように思いますが、ここ数日の間主(あるじ)をご主、又はごしゅと表現することの是非について物議を醸していたようです。
かく言う私もかなり硬質な引用リツイートを投稿いたしました。ここには埋めきれない深い溝、越えられない大きな壁があると思っています。

さて。コトバンクによれば「主従:1 主となるものと従となるもの。2 主人と従者。主君と家来」とあります。「主君と家来」という表記がある以上、上下関係がそこには存在することは明白と考えます。
これを前提に主(あるじ)を下に立場するものが敬称を略して軽々しく「ごしゅ」と表することについて大きな違和感を覚えますし、表している人間には極度の侮蔑をもって対峙したくなります。
また「ごしゅ」を呼称されている当の本人は、この表現を良しとしているのか。良しとし、何らの注意叱責も行っていないのであれば「似合いの二人」として極度の侮蔑を送りたいと思います。

最初に「埋めきれない溝」と記述しましたが、何故埋めきれないのか。これを考え、述べてみたいと思います。
まだSMがサディズム・マゾヒズム嗜好者のどちらかでしか表現されておらず、S=主人、MasterでありM=奴隷、Slaveで有った頃。
ごく限られた人達の中での情報のやり取りであり、そこには暗黙のルールが存在していました。
※ここでは文章作成上の利便性を図るためトップ・ボトムという表現をいたします。

ボトムが複数の、他のトップの前で粗相をした場合、蔑みの目はその粗相を犯したトップに注がれます。
理由は「ボトムの躾もロクにできないトップ」という認識をされるからです。そして、他のボトムから粗相を犯したボトムへ「あなたが粗相をすると主様の評判が下がるのよ。そういう自覚をなさい」と忠告がされました。
こうして狭いコミュニティであったからこその暗黙のルールを教えられ、浸透していったように思います。

どこぞのスペースでも言いましたが、以前の狭いコミュニティ(SM界隈)の時代は嗜好者の分母と分子がほぼイコールでしたから、前述の暗黙のルールは比較的浸透しやすく、また新参者に対しても界隈ベテランの方々が優しく厳しく教えてくれましたし、それに合わない、背くものは界隈のコミュニティに属することは出来ず、淘汰されていきましたから秩序は保たれ易かった様に思います。
しかし、SMのビジネス化が進み分母が増加したけれど暗黙のルールは浸透せず、分子である狭いコミュニティ時代の人々が少数派となり、さらに「多様化」「各自の自由」という非常に使い勝手の良い言葉が跋扈したことによって、かつての狭いコミュニティ時代の人々と「ニュー・ジェネレーション」な人々の間には価値観の相違を含めた「溝」が出来上がり、考えの違いによって溝が深まって現在に至ってるのではないか。というのが私の見解です。

このニュー・ジェネレーションの人々がよく使う言葉に「恋愛主従」というものがあります。非常に違和感を覚える言葉です。
恋愛は対等な関係によって成り立つものであるという認識を、私はしております。
一方で主従は最初に記述した通り上下関係によって成立するものです。果たして、同時に成立しうるものなのでしょうか。3次元ベクトルのXYZ軸とは訳が違います。
ここで断じておきますが、恋愛主従は厳密には主従関係ではありません。アンチが増えることを厭わずに敢えて言うなら「主従ごっこ」です。
そこに「自らの全てをかけて」という覚悟は皆無であると言っておきます。

末筆になりますが、これははっきりと書かせて頂きます。
二人だけの部屋の中で「ごしゅ」呼びすることには何らの問題は有りません。そこは二人だけの世界であり、他人が口を挟む余地は無いからです。
しかし、インターネット上のSNSは違います。多くの人が目にする場所での発信であり、その発信には賛否両論が着いて回ります。
賛同する人もいれば、不快感を露にする人もいます。
今回「ごしゅ」呼びに対する不快感を現したポストに対して、様々な批判のポストが為されましたが、その多くが「読解力の無さ」とそれに伴う「深い考察の無い、脊髄反射的な反論」と感じました。
蔑視の目をもって言わせて頂ければ「痛いところを突かれたから、脊髄反射的な反応をしたのでしょう?」と。
そして、そのような反応をしたということは自身の心のどこかで主従を騙っている負い目があったからでは無いのですか?と。

多数派であることが、必ずしもスタンダードではないと意見し、
この文を締めさせて頂きます。

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