「管理したい」と「管理できる」は違いますよ。
結論から申し上げますと「管理したい」=「管理できる」ではありません。
「管理したい」は特定の誰かなのか、不特定多数に向けてなのか。によってもモチベーションと具体性の有無が変わってきます。
特定の誰かに向けての「管理したい」の場合、その要望を向けられた人がOKであれば問題なく「管理する・される」の関係がスタートします。後のことはお互いが決めれば良いでしょう
不特定多数が対象の「管理したい」には、その理由が見えづらいです。どうして管理したいのか(動機)、どのように管理するのか(方法)この考えをぶつけられた不特定多数は訳がわからないのでスルーするか見えないところで嘲笑するかのどちらかではないでしょうか。
「管理したい」という人の考え方はペットショップで犬猫を買う人と同じように感じます。
ペットショップに行った。ガラスの向こうで人懐こく尻尾を振る子犬がいた。可愛いと思った、金はある。買っちゃった(飼っちゃった)。犬猫なら相手を選べませんから、ちゃんと面倒を見てくれる人か、飽きて方っておかれるかは「飼い主ガチャ」によって決まってしまいます。
ではD/s、主従の界隈ではどうか。
いい事いわれたから管理されたい。という人はいないと思いますが、管理者を決める一因にはなっているでしょう。
であれば、「決めさせた責任」は生じます。ピロートークだ、社交辞令だ。というのは無責任というものでしょう。
最初の数ヶ月だけ美味しいものを与えて、段々と質の悪いものにしフォローもしない、面倒も見ない、気も遣わない。そんな状態になったら管理される側も不満を持つし、内向的な人は病むでしょう。
※そういう人間だと見抜けなかった責任は一定数量生じますが。
管理できる人は「管理したい」とは言わないものです。
なぜなら管理することの大変さを知ってますから無責任に発言をしません。そして、管理されたい側の「覚悟」を重要視します。
だから管理されたい側からの申し出がない限りは動きません。
申し出があっても覚悟が見えなければ受け入れしません。
そういう姿勢や考えは滲み出て、それが人としての深みや魅力になるので管理できる人は何も言わずとも、管理されたい側からの申し出でを受けるだけで済むように成ります。
※フットワークが軽いとか、ある事象について情報を提供する等「地アタマのよさ」もこうした魅力になります。
「管理したい」と「管理できる」は別物であり、管理できる人は魅力に溢れる人でも有るので何もせずとも申し出がある。
なので、管理されたい人がいましたらその人がフリーなうちに申し出される事をお勧めして、この項を終わります。w
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