口にすることが過ぎることで重厚さが失われていくことについて

免責事項
後半かなり批判的です。脊髄反射的な批判をされる方は読むことを避けた方が良いかと思います。

聖書に「汝、濫りに神の名前を口にすること無かれ」という一節があります。色々な解釈がありますが、私が一番しっくりするものは「しょっちゅう口にしているとありがたみがなくなる」というものです。謝罪を何度も重ねると、本当に反省しているのか?と反ってその真意に疑念を持たれるのと似たものがあります。

D/sや主従、SM界隈では「ご主人様」に関するノロケや不満をよく目にします。私はこの状況に違和感を覚える事が、多々あります。
というのは私自身は過去において従者、Slaveに「ご主人様と呼ばなくても良い、口にせずとも良い」と伝えてきたからです。
前述の「汝、濫りに神の名前を口にすること無かれ」に関連するのですが、主である、マスターであるという認識は従者、Slave側がするものであって、「ご主人様と呼べ」というのは強制的であり、強制されてそう呼ぶのでは真の意味での主ではないのではないかと思うからです。
10/12の哲学カフェがあるので、あまり多くは語りたくないのですが主従やD/sの関係性は宗教の信仰や哲学的な思考と行動に類似していて各自が心の中で思い、考え、行動することは形骸的な言葉よりも意味があり、重いのではないかと考えています。

実際、本当に主やMasterであると思っているなら多くの人が目にする場所に不平不満を書き連らねないと思います。
何故なら、そうした不平不満を書き連ねる事=主またはMasterの力量不足を世に多く知らしめ、引いてはそのような行動をする従者、Slaveを躾け出来ない者と判断されることになります。
上記のような、少し考えれば分かりそうなことも判らない従者、Slaveは低レベルであり、自身が主、Masterを辱めている事にも気がつかないのは救いようがないというのが私の考えです。
従者は主を映す鏡であることは忘れて欲しくないと思います。

話が逸れましたので、5mほど巻き戻します。
昔話になりますが、かつて関係を持っていた女性にも同じように伝えておりました。彼女が私を「ご主人様」と呼んだのは長い期間でただ一度だけ。急な関係の終焉を迎える少し前でした。
私との行為で果てる直前、大きな声で「あぁ、ご主人様!」と叫んで果てました。その叫びの中に見えた本当の思いに、それまで生きてきた中で一番の悦びを覚えました。
※私が60過ぎたいい年になってもSMや主従の界隈から離れられないのは、この時の悦びゆえだと思っています。
普段からそう呼ばない、思い続けるからこそ互いに得られる大きな悦びが有ると思います。

従者側も昨今は日常生活の中で色々抱えていることが多くて大変でしょう。
ですが、その全てを主君、Masterに依存して、自分を保ってもらう事は果たして間違っていないのでしょうか?
子供の教育の事、仕事や家庭内での不満、経済事情、それを主またはMasterに愚痴をこぼすことで何か解決するのですか?
従族・服従と依存を同じに考えているのではないですか?
従者側のメンタルの弱さをカバーしてもらうために主またはMasteが存在しているのではありません。
主従やMaster&Slalveの関係はストレスの緩衝材、メンタルの安定器ではないのです。

主と認めた、Masterについて行くと決めた「何か」があったはずです。「何か」以外を求めすぎると、それはもはや餓鬼道に落ちることと同じになります。折角の関係性なのですから、主においても従においても求めすぎず、引っ張りすぎず、良い関係性を長く過ごして欲しいと心から思う次第です。
※かといって、全ての悪原因、要因が自分に有るとも思わないで下さい。過ぎた自責は改善の妨げになりますから。

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