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制度史を少しばかり覗く

とりとめもない断想。

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現代の法や社会制度の仕組みもなかなか難しくて、色々見ながらジェンダー平等を目指していかなきゃいけないと、思う。

一方で、日本では明治時代になるまで奈良時代に作られた養老律令がいちおう形式的には有効だったりしたし、現代の習慣や法律も各国にそれぞれの事情があり、そういうものも参観しないといけない。明律は明治時代にも法整備のために参照されたそうだ。

ウル・ナンム法典に始まり、ハンムラビ法典、ローマ法、律令、イスラム法(シャリーア)、色々な法や社会制度が試みられてきた。それらは「過去のもの」として一顧だにされない――場合によっては、そのうちコントロバーシャルな部分を参照することさえ「人権軽視」と言われかねない――傾向にあるが、人類の歴史からするとこれは最近の奇妙な傾向なのかもしれない。
人類社会は自然科学のような実験が利かない。言わば過去の人類の歴史は多くの流血を伴う膨大な実験の集積とも言える。その結果を参照しないで、過去数十年の社会の情勢だけを参照する社会科学ということがありうるだろうか。

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ところで、養老令の戶令卅一を見てみると、夫婦とその家族間での暴力行為を列挙し、その場合に「義絕」(強制離婚)となっている。その中に、妻の場合に限って「欲害夫」が挙げられている。

こういう例が出てくると、現代のフェミニズムはおそらく安易に「当時、妻は夫の所有物にされており、だから夫が妻を害そうとする場合は問題にならなかったのだ」という解釈をするだろう。しかし、これを現代社会と比べてみると、その解釈は一面的に見えてくる。

現代社会を見てみると、夫から妻への暴力が犯罪として問題視され対策が取られているのに対し、同じくらいの頻度、同じくらいの暴力性をもって行われているであろうと推定される妻から夫への暴力は看過される傾向にある。社会制度が妻の夫への暴力を容認しているのだ。

これは現代社会において「夫が妻の所有物である」ことの証拠だろうか? 実のところ、それはある程度そうかもしれない。しかし、現代社会ではそういうことになっていない。現代人が律令をそう解釈するなら、現代の制度をそう解釈しないのは自家撞着だろう。

現代には「DVは夫が妻にするもの」という(事実とは異なる)偏見があり、現代の制度はこれに基づいて運用されている。ならば、律令が作られた時代には「DVは妻が夫にするもの」という(これも事実とは異なるが、事実との異なり方は現代に存在する偏見と同様であって、現代人は律令が作られた時代の人を全く馬鹿にできないし、馬鹿にできると思っているならその分だけ現代人の方が間違っている)偏見があって、そういう偏見に基づいて律令が作られた、と考えておく方が誠実ではないだろうか。

おまけ:

ヘッダ画像は令集解 巻10より。


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