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国際男性デーに寄せて
今日、11月19日は国際男性デーだ。
私がX(その当時はTwitterだった)で「りべます」として活動を始めたのは5年前のこの日のことだった。このnoteはそれから2日後に始めた。そして今日、みなさまからいただいた「スキ」がちょうど合計200に達したそうだ。ありがたい。
Xもnoteも、どちらもそれほど世間から注目されるわけでもなく、「インフルエンサー」でも「オピニオンリーダー」でもなく細々とつづけているが、この細々ということがかえっていいのだと思っている。地道に、地に足をつけて進んでいこう。私が主張してきたことを、分かってくれる人は分かってくれる、と、思う。
ナチスドイツが滅んで80年も経つ今になって「ナチスは悪いことをしたんだぜ。やい、お前、知らないだろ?」と、誰でも知っている知識で得意がることは誰でもできる。そんなのは意味のないことだ。本当に意味のあることというのは、その時代の権力に阿らないで、虐げられている人を助けることだ。そして現代社会で最も深刻に虐げられている被差別属性の一つが、男性だ。
男性差別のメタ構造
男性差別には一つのメタ的な構造がある。
「女だからこうしろ」という命令は、今では容易に通るものではない。しかし、「男だからこうしろ」という命令は、今でも当然のものとして通用しつづけている。ジェンダーロールに従わなければいけないというところまで含めて男性のジェンダーロールで、ジェンダーロールに従わないこともできるというところまで含めて女性のジェンダーロールなのだ。ジェンダーロールにはこの不均衡なメタ構造がある。
現代社会において、「男だから、女だから」の押しつけは、女が男に一方的に使える棍棒になっている。平等のためには(a)男も女もこの棍棒をつかえるようにするか(b)男も女もこの棍棒を使えないようにするかの二つに一つしかない。
他人に何かを押しつけるのは快楽だから、昔に戻って(a)になってほしいと主張する男性も中にはいることだろう。しかしそこに現れるのは万人の万人に対する闘争だ。私は(b)を主張したい。男であろうと女であろうと、自分らしく生きていける世の中になるといい。
ラディカルフェミニズムは男性を悪魔化する悪辣な手口を使う。マスキュリズムはこの手口を真似すべきではないと思う。それはもちろん第一にはそれが不正義だからだが、第二には、それは女性固有の権力ゆえにこそ通じるものだからだ。
ラディカルフェミニズムが喚き散らすだけで成功するのを真似てもマスキュリズムが成功する望みはない。なぜならば、非論理的に願望を正当化して主張するだけで許されるのは女のジェンダーロールだという非対称性があるからだ。
マスキュリズムにはより一層の理論化が必要だと思う。