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紙一重の問題
Enpediaの記事数が10万本を突破したという。(一回10万本を超えてから著作権侵害の疑いのある記事を削除してもう一回10万本を超える、というようなドタバタな10万本達成だったらしいけれど。)
先日、Enpediaを始めた記事を書いた。それ以降、特に「男性差別」の項目にちょこちょこ手を入れて成長させている。
当初は6,981バイトだったが、現在は104,056バイトで、Enpediaの記事の中で92位と、トップ100入りの長さになっている。
最近は「弱者男性」を題名に冠する本が出版されるなどして、男性の置かれた状況に対する関心が高まっている。しかし、実のところ、このEnpediaの「男性差別」の記事があまり多くの人の目に触れるのは私の本望ではない。男性差別に対して問題意識を持つ方々が何かを述べるときの秘密のアンチョコにでもしていただけたら幸いだ。私は縁の下の力持ちでありたい。
紙一重の問題
男性差別の問題を考えるにあたって、いや、男性差別に限らずあらゆる差別を考えるにあたって、常に「紙一重の問題」がつきまとう。そういう問題意識を最近の私は持っている。そして、紙一重な問題についてはとりあえず「エポケー」――つまり、判断を留保する――の立場を採るべきだ、というスタンスを採りたいと思っている。
「ボディータッチ」という紙一重
例えば、女性が「ボディータッチ」などと称して勝手に男性の体を触りもてあそぶことは、今日の社会において、男女逆の場合に比べて許容されがちである。男女共同参画局による、女性による男性への「ボディータッチ」と称した強制わいせつ行為を助長するようなポスターを参照されたい。これは明らかな男性差別であり、性的暴力の肯定であり、間違いなく良くないことだ。それでは、そういう行為に及ぶ女性を片っ端から(男性同様に)牢屋に入れておけばいいだろうか? それでも平等は平等なので、良いと言えば良い。
だが、どのくらいの関係性で、どのくらい触れたときに犯罪になるのか――。そこにはかなりの曖昧さが介在する。その曖昧さの存在を否定し、客観的操作で犯罪を決定できると主張するのは嘘でしかない。実のところ、問題はある程度相対的なのであって、この問題は、男性が女性に触れることが過剰に禁忌視されるという問題でもある。ネットを騒がすAED問題は、まさしくこの一つの現れである。
女性が男性に触れることを男性が女性に触れること同様に咎める方向か、男性が女性に触れることを女性が男性に触れること同様に許容する方向か――。いずれの方向への統一であれ平等でなくてはならないし、平等であれば差し当たり構わない――もちろん、「痴漢も無罪放免」とか、「AEDで異性を助けようとした人も逮捕」のような行きすぎにならない範囲内で――とりあえずそういう態度を私は採っておきたいのだ。これが私の「エポケー」である。
いくつかの紙一重: 性表現・清掃員の性別・女性専用車両
「紙一重」なものは、他にもいくつもある。
女性を性的に描いた漫画は排撃されがちだ。しかし、男性を性的に描いた漫画はそれに比べて許容される。それでは、そういう、男性を性的に描いた漫画も排撃するべきだろうか。男性差別という観点だけからすれば、それでも良いと言えば良い。しかしこの問題については、私は自由主義という観点から、とうていそういう排撃に賛成することはできない。キャラクターが女性であろうと男性であろうとその他の何者であろうと、性的表現は禁止されるべきではない。
男子トイレや男子浴場に女性の清掃員が入ることに対する批判が行われるようになったのはよいことだ。この流れに私は賛同するのにやぶさかではない。しかしこれもまた紙一重である。男性の清掃員が女子トイレや女子浴場に入ることはそこまで忌み嫌われるべきことであったか? これも男性医師による女性の診察や、AED問題などと地続きであって、実はそれほど単純ではない。
女性専用車両に対する私の基本的立場は、廃止に賛成だ。ジェンダーで空間を分けるというアパルトヘイト的差別構造には賛成しがたい。しかし、その廃止に時間がかかるとして、その廃止までの過渡的措置として男性を守るために「男性専用車両」を導入するというのなら、それはそうしたらいい。
そういう意味で、男性専用車両導入主義に対して賛意を示し、応援したこともあるし、なんなら今も応援している。これは矛盾ではないと思うし、こうしたところで一つの主義に凝り固まるのが良いことだとは思わない。私たちは、男性差別の撤廃という大きな目標に向かうべきであって、細かい目標はあくまでも千里塚にすぎないのだから。「月を指せば指を認む」という、『楞厳経』に由来する諺があるが、我々が目指すのは男性差別の撤廃という月であり、男性専用車両という指ではない。
また別の紙一重
ウィックジェイ氏の「久米泰介はかく語りき」という記事を読んだ。
①マスキュリズムはジェンダー保守派・復古主義とは組まない
②女の性表現の規制ほどには、男の性表現も規制せよ
③アカデミズムの中でマスキュリズムの人材が必要だ
久米氏の①の主張に対して、ウィックジェイ氏は賛意を示す。私も同感である。
②に対するウィックジェイ氏の姿勢は、いちおう反対であるようだ。「マスキュリズムと表現規制」の記事の「「オタクでありマスキュリストでもある」という考え方も、少なくとも私はあってしかるべきだと思います。」という文言は必ずしも歯切れが良くないが、②に対する反対論として読み取っておきたい。
この②について、私が反対の立場であることは上に述べたとおりである。だが、やはり、これもまた「紙一重」の問題なのだということは忘れないようにしたい――と、私もまた歯切れを悪くしておこう。私はこの記事で歯切れの悪さの類義語である「エポケー」の必要性を説いたのだから。
③について、ウィックジェイ氏は反対の立場を採る。しかし私は――諸手を挙げてとはいかないが――③には賛成である。ウィックジェイ氏自身の記事から引用しよう。
(略)日本にはまだまだ、女性だけに認められ男性に認められていない権利がたくさんあります。レディースデーなど商業面の優遇や女性専用車両もそうですが、性暴力被害とそのケア、父親育児のための権利や離婚時の親権、母親ないし姑から息子への虐待からの保護など、法律や社会意識の中の問題も多く含まれます。マスキュリズムはこちらの問題解決のほうに多くリソースを割かねばなりません。
これこそが③に賛成すべき理由である。いずれも法律や社会の問題であって、人文科学・社会科学の仕事である。人工子宮で女性優位が崩れ去るという希望的観測に至っては、進化心理学者には至近因と究極因の混同であると叱られるのではないだろうか。
ウィックジェイ氏はマスキュリズムを学問ではなく社会運動として行うべきだ、と主張するのだろう。しかし、社会運動とその理論づけは両々相俟って行われなければ、船頭を失った船のようなものであろう。マスキュリズムにおいて、社会運動のない学問は身体のない精神、学問のない社会運動は精神のない身体である。
もう4年も前の記事であるから、ウィックジェイ氏自身の考え方も変わっているかもしれないが、「論より運動」の態度は、現に優れた論を発表し続けているウィックジェイ氏自身の方法ともいかにも食い違っているように私には見える。あるべき社会を論じることは、もはや一つの学問ではないのか。
と、これだけ久米氏の③の意見を擁護したものの、実は諸手を挙げて賛成というわけにはいかない。というのも、現代社会において、マスキュリズムを学問として修めたいという少年にまともな進学先があるだろうか。あるはずもない。フェミニズムを修めたいという少女がどんな大学でも選び放題なのとは正反対だ。
そして、彼らが学士号を取り、修士号を取り、博士号を取って、研究者として就職して身を立てる方途があるだろうか。久米氏が今ごろどこぞの大学の教授にでもなっていて、彼らの指導教官になってくれるというのであれば、私は諸手を挙げてこの③の意見を称賛しただろう。ウィックジェイ氏が「ただでさえ男性の中でも少ないマスキュリストをそこまで発展させるには、何十年いや何百年かかると思っているのでしょうか?」と言うのは、たぶん、そういう意味もあるのだろう。
その茨の道に飛び込むという少年がいるならば私は彼のために何でもするが、未来のある若者にわざわざ茨の道に飛び込めとまでは言えない。学問としてのマスキュリズムの道に踏み込む若人が増えなければ男性差別は軽減させられないが、男性差別ゆえに若人をその道に進ませることができない。ジレンマである。「男女共同参画白書」が示すように、男性には進路選択の自由が女性に比べて制限されている。男性差別の現実はかくも厳しいのである。そしてそれゆえにこそ私たちは男性差別と闘わなくてはならないのだ。
おわりに
さて、紙一重の問題はエポケーして、男性解放のより大きな見地に立たねばならないという話をしようとしたはずなのだが、どうも久米氏やウィックジェイ氏の主張のうちの紙一重な部分をつつきまわすような文章になってしまったのは奇妙なパラドックスである。
私は久米氏の積み重ねたもの、そしてウィックジェイ氏が積み重ねつつあるものに対して、尊崇の念を惜しまないものである。そして、重箱の隅をつつく程度のこんな文章でも、積み重ねられてきた男性解放のための試みの、ささやかな一ページになればいいと思う。