映画すみっコぐらしの予告編のとんかつとえびふらいのしっぽについて感じた事

すみっコぐらしの映画のとんかつ扮するとん頭巾ちゃん、可愛い過ぎて目眩がするのと同時に、私は物凄く切なく複雑な気持ちになってしまった。

普段おっとり、のんびりとした性格に描かれているとんかつが、
自分を食べて貰えるかもしれない存在の狼を前にして珍しい程の積極性を見せ、
あのとんかつが走ってまでして狼を追いかけている。
その原動力は間違いなく"食べて"という思いであり、狼に迫るシーンのとんかつは文字通りキラキラとした、輝かんばかりの憧れを前にした表情だった。
本当に、夢を見ているような顔に私には見えた。とても嬉しそうだった。
あのシーンを見て、とんかつにとってこの生においての一番の願いは矢張り"食べて貰う事"なんだと痛感した。
勿論ファンとして"知って"はいた事だけど、それをより強く現実的に改めて実感したのだ。

すみっコぐらしが誕生して早七年。
すみっコ達の世界では私達の世界の年月の感覚は当てはまらないのかもしれないが、
絵本や漫画本やテーマで季節が巡っているのを見るし、あの映画の世界に至るまでもきっとそれなりの歳月を重ねているように思う。
その中でとんかつとえびふらいのしっぽはみんなとゆったりと時を過ごし、
色々な経験をして、様々な思い出を積み重ねて行った事だろう。
それでも、やっぱり、とんかつ達の願いは"食べて貰う事"それが彼等にとっての何よりの望みで、幸せである事は揺るがなかったのだ。
私の感覚で人ではない彼等の気持ちを語るのはとても烏滸がましい事だとは承知の上でこれを綴ってはいるが、
矢張り複雑な気持ちになってしまうのだ。
彼等の願いの食べて貰う事とは、
それはつまりあの世界から形としては居なくなってしまうという事だ。
食べられてしまったら(こんな表現をしてしまってごめんなさい)もうみんなと過ごす事は叶わない。
大好きなすみで落ち着く事も、色んな場所にお出かけする事も、お話しする事も何もできない。
それをとんかつやえびふらいは、すみっコのみんなは寂しいとは思わないのだろうか。
勿論これは、未熟な人間の私だからこう感じてしまうだけという事はわかっている。
とんかつ達はどうしたって食べ物だから、食べて貰う事が一番の幸せで、
またすみっコのみんなもそれを何より理解できているのだと思う。
彼等は私なんかよりもずっとずっと心が成熟していて、本当に相手の幸せを一番に願う事ができ、
この世に存在する事だけが一緒に居るという事ではないと理解しているし、
またとんかつ達も自身の幸せや願いを明確に描き伝えられて、
きっと私なんかでは想像できない程の大きな感情や愛を持って、お互いを大切に思っているのだろう。
だから食べられてしまう事=形として存在しなくなってしまう事を寂しいと感じてしまうのは私の未熟な心によるエゴでしかないのだ。
私も彼等の様に考えられたなら、
一緒に心からとんかつ達の願いを応援できたなら良かったのに、そう思う事は少なくはない。
かと言ってとんかつ達に、
第三者のために食べ物である彼等が抱く本来の願いを諦めてまで、この世に存在し続けて欲しいとまでは思えない。
寂しいという個人的な感情はあるが、
矢張り二人の幸せが私の望みでもあるので、彼等の願いや希望を大切にして欲しいとも思う。これは本当にわがままだけど。

食べられなくても、別の形の幸せがある!
勿論本当に彼等がすみっコで過ごす内にそう感じ、そう思ったのならそれでいいし、私はそれを受け入れたいと思う。
だがここで一つ、とんかつのエピソードを紹介したい。
とんかつは砂糖の沢山入ったコーヒーが好きだが、それは甘い味のコーヒーが好きな訳ではなく、調味料である砂糖が入れられている事それ自体が好きなのだそうだ。
これを読んで私はとんかつは本当の意味で食べ物のキャラクターであり、
とんかつ自身そのアイデンティティを何よりも大切にしているのだと強く感じた。
だからこそ、とんかつには"食べ物としての願い"を大切にして欲しいとも思ってしまうのだ。本当にこれも私の勝手なエゴだけど。

長々とまとまらない気持ちを綴ったけれど、よこみぞゆり先生は、このとんかつのはじっことえびふらいのしっぽという魅力的なキャラクターに、最終的にどの様な結末を与えるのか。二人はこの先どの様な幸せを見つけるのか。
出来る事ならば長く彼等の日常を眺めていたい、でもより早く彼等の願いが叶い幸せになってほしい……。
そんな相反する気持ちを持ちながら、私は揚げものコンビの願いを見届けたい。大好きだよ!!!!!!