かなたからの月
缶ビールとパンフレットをそれぞれの手に持って
映画館からの道すがら
海沿いをひとり、歩いていた。
やっぱり夜もすきだ。
都市だと、夜にひとりで歩いていても、みえない他者の存在をいつでも感じられるからよい。
他者の存在がない中で、自分の行動や生命の責任や一部始終の記憶を自分自身で負うことの自由もよいが、人の存在を感じながらこうして孤独にひたれることも贅沢だ。
こうしてひとりでひっそりお酒を飲みながら歩くのもすきだ。
そんなの行儀がわるい、と、だれかからは言われるけれど。
歩くリズムの中でアルコールが回ったからだが、寒さの中にどんどんと熱を帯びてくる。真っ当に歩いているつもりが頭は少しふわふわしている。
今日も月が、でかくてまるい。
綺麗だと思った瞬間のその場で動きを止め、しばらくの間見惚れていた。
ざわめきには頓着せずに、世界に自分だけがいるような気分で直立していると、手が届くほどにすぐ目の前のベンチにはじつは仲睦まじきカップルがぴったりと座っていて、口づけのために横を向いたすきに2人が私に気付いた。ふと目線を感じ、その場を離れた。
1年間を過ごした神戸のこの街なか。
映画館まで歩いてすぐなのに、こうして海まで来れば、ちゃんと当たり前のように波の音が聞こえる。
私が立つ、この陸の端の波打ち際で、隣に座った若者たちは音楽を流しながら海に向かってしょんべんをし、夜空を見上げて「月がやばい!」と騒いでいる。なんて、いい街なんだろう。
それにしても美しい月だ。
今日は朝起きてコーヒーを淹れて勉強と仕事と作業をして、夕方からは元町映画館でエリザベス宮地による東出昌大のドキュメンタリー『WILL』を見た。
考え続けること
それを言葉にし、つむぎ続けること。
その言葉を、人に伝えること。
やはりそのような営みは、全くもって不毛ではない。無下にされるべきものではない。と、勇気を貰ったような気分だった。
どれだけ将来に変わろうとも、後から考えるとどれだけ間違っていたり恥ずべきものとして認識されようとも、
というか、こたえの出ない問いに対しての思考がそうして健全に真っ当に地道に時に劇的に変わりうるものだからこそ、
日々自分の手と足とあたまを動かして掴まえたその”感じ”を、そのときの鮮度のままに伝える必要があること。
過ぎゆくものの記録として。消えていくからこそ。
そんな問答ができること。
自分が投げかけ、他者から投げかけられるような時間が人生にあること。
その無秩序でまとまりのない発散をある程度いつだってできるほどに信頼できるひとと関わっていること。
幸運にも人は、両者にその気さえあれば、言葉を交わし、時間を共にすることでむすんでいける絆がある。
だから潔癖になったり狙ったりする必要はなくて、どんどんいろんな人に会いに行き、話を聞いて、一緒に過ごしていけばいい。
これはちがう、と思うときがあるなら、その感覚を溜めていけばいい。
出会っていけばいいんだ。
目の前で起こっていることに対する、大小さまざまな違和感。
おかしいと思うものに対して、怒りや攻撃でもなく、消費でもなく、抑制でもなく、「?」という気持ちを保存しながら、真剣を突き抜けた先にある気楽さの底の結局の真面目さ、みたいなものを持って、「生きる」ということに自分の思考と時間をつかっていくこと。
考える対象があっけらかんとした好奇心や研究の中にばかりある必要は、ない。
中盤、子どもたちとのシーンでの、しましまの服をきた男の子の動きが印象に残っている。
カメラの中にずっと写っているこの人(東出昌大)には見えていないものがある、とその映像を見ていて思った。それは仕方ないし当然のことで、誰にでもこうして見えていないものがある。世間において、目にしてはいながらも実際にはこの人(東出昌大)のことが見えていない人も、いる。
とりこぼすし、とりこぼされる。
でもその見えていない存在も、同じ時代に、同じ空間に生きている。つまりその存在からの主観が確かにあって、その存在にとっての時間が、生活がある。
カメラを”持つ”人からの視点を通して、「それぞれの主観が存在する」ということを、この現実の中で切り出しわからせてくれることに、ドキュメンタリーの意義があるのだろうと思った。
私も、自分が本当にやるべき仕事をする必要がある。
自分は自分の人生を生きねばならない。
どんな人にもその人だけがその人の主観をもって生きているその人の人生、その人の思考や感情があり、生活の中に笑いが、罪が、葛藤がある。
表面だけを見て忌むべきものなんてなにもない。
自分の主観はこの自分にしか生きることができない。
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数日前に新潟で、日本海を行く船に乗った。
自分の身体をもって感じるその海の荒さに、心底おどろいた。
私は、瀬戸内海を渡るフェリーがいかに穏やかなのか、そのときになってはじめて気が付いた気がした。
海はたしかにつながっている。
けれど、陸地の条件や地球上の位置の違いによって、人びとがその身体で主観的に感じるものとしてのそれぞれの海は、確実に異なる様相を持っている。
日本海と瀬戸内海は大きくちがうし、瀬戸内海と地中海だってきっとちがうのだろう。
(それでも凪の日の波打ち際や揺れて光る水面だけを見ると、どこも変わらないような気分にもなるけれど。)
それに対して月は、どこであってもそれ自体同じように光っていそうだ、
そんなことを思いながら再度月を眺めて歩みをつづける。
どうなんだろうか。
もしかしたらここに、我々が地として踏んでいる地球と、その地球が浮かんでいる場所としての宇宙というスケールや関係性のちがいが表れているのかもしれない、と、ひとり呟く。
海は地球だが、月は地球ではない。地球にとって月というのは対象だ。
宇宙はひろい。
別のところから見た月が、それぞれの地でどのように浮かんでいるのか。
私は、あらゆるところに自分で行って、そのことをまずはこの目でたしかめなければならない。知っていかなければならない。
たとえこれが実のところ馬鹿げた疑問であったとしても、それに自分で気付いたその先にはまたあたらしいあざやかな疑問がうまれていることだろう、と思う。
勉強と修行が必要だ。知るべきことがまだまだたくさんある。経験がたりない。
絶望にもなりうるその膨大さに疲弊しないほどの日々の楽しさ、それをその鍛錬自体から得られるような生活を、つづけていかなければならない。
もっとたくさんのものに感動できる大人になるために。
目の前にあるそのものごとが、いかに美しいのか、いかに美しくないのか、それを自分なりの的確さで捉えることができるように。