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はじめに【もじょもじょの言語化】

小さいとき、私は今よりもかなり感覚過敏なこどもだった。
特に触覚が過敏だった。
服や布団など、肌に触れる布などに対して毎度のように「もじょもじょする」と言ってその感覚の不快感を示し、退けた。
そのつたない表現では意思疎通がままならず、不快さだけを表明してひたすらに拒否をするという行動を理不尽と受け取られ、母親の神経をしばしば逆撫でしていた。

それでも当時の私には、その感覚を言葉にする力がなかった。

表現による”癒し”

先日、憧れの、大好きな人と電話をしていた。
久々に話すその人は、今後していきたいことの1つに、”癒し”があると言った。

必ずしも全ての人が、自分で自分のことを率直に正確に表現できる人ばかりではないからこそ、表現することが好きだったり得意だったりする人がその人の代わりにその表現をしたり、表現のきっかけをつくるということが ”癒し”につながるんじゃないかと思っている、と言っていた。
そして”わたしたち”は、そういう人になれるんじゃないか、とも。

私はこれまで、表現やものづくりを、自分”を”表現する手段とまでしか考えていなかった。
そんな中で、好きなことや得意なことを社会の中でどう自分の役割として持って生きていこうか、と、折り合いの付け方を模索している私は、そこに大きな示唆があるような気がした。

私が私の感覚を言葉によって掬い出し、自分を癒す

23歳になった私は、あのころよりも多くの言葉を持っている。
一方で、自分の感覚への鈍感さを身に着けた。そうじゃないと、あまりに生きづらいから。

サバイバル能力と鈍感さというのは、私自身もつい最近までずっと混同してしまっていた。
自分のたくましさをアピールするために、自らのいろんな感覚を捨ててきたように思う。
「ま、そんなもんか」と思うことが、かなり私を自由にしてきた。悪いことばかりではない。

でも、そうやって日々無視されつづけていても、不快の感覚はきっと存在していて、それに対する感度を無くせば無くすほど、自分の感覚、そのセンサーはどんどんと失われていってしまう。

「おいしさ」について、言葉の持つ効能

ついこの間、友達と徳島に遊びに行った。
その子は、「おいしさ」の理由を鋭く感知し、冷静に分析してその場で言葉にすることが本当に上手。

たとえば、
パンナコッタを食べたときには、
ミルクの風味が、口に入れたときと飲み込んだときで変わる。飲み込んだ後のほうが甘さとミルクの濃さが口の中に広がる。それが美味しい。
とか、
アナゴチップスとごはんを食べたときには、
ごはんのあたたかさによってアナゴチップスの固まっている油が溶け出して、そのかおりがふわっと広がるのと油が口の中でとろっとする。それが美味しい。
とか。

食レポともまた違う。
私はここ数年、「おいしさ」というものが不確かだという確信をずっと持っていて、本当に自分がそれを美味しいと思っているのかわからない、どれだけ不味いと思っているものでも馴れれば美味しく食べることができるんじゃないか、などとずっと言っていた。

でも、その友だちはおいしさの表現を持っていて、おいしさの指標や定義みたいなものが明確かどうかは、別に前提として必要ではない。むしろ、表現を通してその1つの指標のようなものをコツコツと彫刻していっているように感じた。
「おいしさ」というものをまず定義するのではなく、自分が今「おいしい」と感じている食べ物の、その要素をじっくり分析する。

これは私にとって革新的なことだった。
おいしさは不確かなものだとばかり思っていたのに、その子の分析を聞き、それを理解した上で意識しながら食べると、味に輪郭ができ、より一層おいしくなる気がする。
食育というのはこういうものなのかもしれない、と思った。
今感じている味が、何によって構成されていて、どのような行程を経てその状態になっているのか。それがわかることによって、目の前のものがおいしく感じる。

「わかればおいしい」
これは結局「おいしさが不確か」ということでもあるのだが、自分の感じる快感というものが、分析と理解によって倍増するというのはすごいことである。
みんながやったほうがいい。

このとき、(正体が)わかっていることによって その快感が強くなる、ということの実感を得た。
私は、ある意味で癒されていたのかもしれない、と思う。おいしいという快感を、その輪郭を象るような言葉を使ってより強めてもらうことによって。

まず私はわからない。でもそのわからなさを、分析して説明してもらい、自分でも理解することができたら、感じている快感がより自分のほうに近づいてくる。

言葉をつかった癒しの実践を、

「わかる」ことはたしかに癒しにつながる。

他者に理解してもらってその場をできるだけ円滑にするためだけではなく、自分がその感覚の輪郭を捕まえられるということは、「追加の材料がいらない、”癒し”の作り方」のようなものな気がする。

だからこそ、言葉を使って、表現によって人を癒してみようとするのだとしたら、まずやってみるべきは自分自身を癒すことなんじゃないか。
今、表現できずに抑圧されているものがすぐそばにある。
私に。私の身体に。私の心に。
それを、今の私がたいせつに掬いだそう。
その不快さが解消されることは別に目指さない。表現されることによって癒されるのか、それだけでは癒されないのか、

「おいしい」の分析がクセになっているその友だちと食事を共にするうちに、自分の「おいしい」へのアクセスも少しできるようになってきた。
どのようなところにおいしさを感じているのか、今口にしているものを注意深く味わい、キーとなるものを探し、とにかく言葉にする。
そのときに得た感覚を、自分の不快感に対して使ってみよう。

言葉にすることの、避けられない加害性(とくにネガティヴなことだからこそ)

それにしても、だ。
不快を表現するというのは、加害的な行為である。
人を傷つけうる。

「ここに不快を感じる」と表現することは、その不快の原因になっているものへの否定が含まれてしまう。ネガティヴなことばかりがあるように見える。
やさしくありたい、人が自由にのびのびと過ごせるような世の中であってほしい、そんな世界をつくる人でありたいと思えば思うほど、否定すべきものなんて無いような気がする、ということもできる。

でも、そこに不快を感じた自分がいるというのは事実なのである。
言葉を持った私だからこそ、それのどこが、どのように、何故不快なのか。
それを丁寧に見ていくと、もしかするとそれは不快ではないのかもしれない。
そうこれは、誠意とやさしさを持って不快を表明するという挑戦でもあるのだ。

とにもかくにも、自分の今を象りつづける必要がある!。
気軽な気持ちで刻んでいこう。

ここ最近は専ら外に向いていた私の意識。
どちらかというとインプットに偏っていた私の意識を、今一度自分の内側へ。

しばらくの間の身近な旅を、ここで始めてみる。


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