【転換期回想録】織彩の箱庭15:生き辛さ
スピリチュアルとかアセンションとか。
そういったものを知るようになってから
昔から自分が感じ取っていたものに
「そういう意味があったのか」と
やっと理解できるようになりました。
例えば「音」
小さい頃から人の声、口調から
その人を「判断」していました。
声はその人から発せられる
判りやすい周波数です。
単純に耳心地の良い声とか
耳障りな声とか
そういうことだけではなくて
その声に乗っている言霊も
感じ取っていたのだと思います。
人間社会は本当に煩いです。
様々な音が私にとっては「痛み」に
感じられます。
音って痛いんですよ…。
この感覚がわかる人は
けっこういるかと思いますが。
理解できない人は特に
そんな「痛い」音を発しやすいですね。
学生の頃からずっと
通学、通勤、普通の外出時、必ず
音楽機器を持ち歩いています。
その時のコンディションにもよりますが
街の音は煩すぎて、人々は煩すぎて
どんどん重たくしんどくなってくるのです。
音楽は自衛の手段です。
お店でお会計するときなどは
失礼にならないようイヤホンを外したりしますが
外出中は基本的にずっと
音楽を聴いていることが多いです。
テレビが観れなくなったのも
変なノイズのような周波数を感じるように
なったからだと思います。
あと匂いにも敏感です。
現実世界からではない匂いを
感じることもあります。
守護者さんからのサインのようですが
「今の匂いは現実?別次元?どっちだ?」
たまにわからなくなります。
昔から太陽が苦手です。
あまり紫外線への抵抗力がない肌質で
肌がこんがり小麦色にはならずに
火傷状態になってしまうので
それで避けていたということもありますが
そもそも日差しを見るとクシャミが出る。
強すぎる光が痛い。
下手すると発疹が現れる(アレルギーっぽい)
なので一年中日傘をさしています。
曇っていても。
単純に日差しに弱いだけかと思っていたのですが
宇宙からのエネルギーに敏感だと
こうなるようです。
この世界は周波数だらけです。
人の思念も周波数です。
良いものも悪いものもごちゃ混ぜです。
宇宙からのエネルギーも降り注いでいます。
それらに敏感だと、本当に生き辛いのです。
そこへの耐性を高めるしかないのですが
これがなかなか難しい。。。
音に敏感といえば
「あなたは〇〇〇かもしれませんね!」
とか言われるでしょう。
別になんでもいいんですけど……。
なんで
●●●の傾向がありますね、とか
□□□かもしれません、とか
「分析」して「分類」したがるのでしょう。
確かに、自分には当て嵌まらなくても
「こういうことに敏感で苦手な人」は
一定数いるのだと知ることは大切です。
こういった分類は、
他者を知り、他者に目を向けるきっかけにも
なるのでしょう。
他者を知ることは、自分自身の振る舞いにも
大いに影響します。
心地よい調和を叶えるなら
自分のことも他者のことも
知っておいた方が良いし
知ろうという意識を持った方が良い。
でも…
そんなポジティブな面もありながらも
どこか、どうにも窮屈にも感じるのです。
分析して、分類して
その限られた枠になんとか収めて
閉じ込めて、終わり。
みたいな…。
多様性とか言われだして久しいですが
色んな人がいることを知りましょう。
色んな人を理解しましょう。
色んな人を認めましょう。
果たしてそれで本当に「調和」するのかな…?
「知る」ことは大事ですが
それは「なんでもかんでも受け入れる」という
ことではないし
まして「全てを歓迎する」わけないのです。
一方を優遇すれば
もう一方はある意味犠牲となる。
何かの犠牲の上で繕う調和(バランス)は
最初から破綻しています。
人は何にでも「名前」を付けたがります。
名前は謂わば物質的なものです。
とりあえず名称がつけば
そこに「物体」みたいに存在する。
病気とかが分かりやすいですかね。
小難しい「病名」がつけば
なんでも「病気」になる。
この世界は物質世界です。
目に見えない訳が分からない状態だと
どうにも落ち着かない。
だから「名前」を付けて物質みたいになれば
良かった良かったと安心するのです。
名付けられた「それ」の
その「根本」を探らなくても
そこに名前があって
物体みたいに「認識」できれば
もう充分、一安心!となる。
人は本当に多種多様です。
ある程度の「傾向」はあるかもしれませんが
その傾向の種類だけでも果てしない。
そんな風に分析しようとか
分類しようとすればするほど
「型」という縛りに嵌め込むだけです。
高らかに掲げられる「多様性」とは
果たして
「多様性」を「理解」したいのか
「型に嵌めたい」のか
その型のどれかを排除したいのか
多様さを押し付けたいのか
押し付けた「多様性」で煙幕を張りたいのか。
一体どうしたいのでしょうね。
さて物質世界ならではの物質的な縛りは
いよいよもって混沌さを極限まで高め
大変面白くなって参りました。
この社会にいると
歪められ、劣等感を植え付けられ、縛られ
自分と向き合うためのゆとりを搾取される。
そしてどんどん疲弊して
やがて盲目的になっていく。
そういうシステムがあることは事実です。
そこに囚われていると
例えば何かに「生き辛く」感じていても
そこへの耐性を高めることは難しいと思います。
自分に向き合う為の目は奪われ
自分を知る機会を奪われ
自分を高める気力を奪われていくでしょう。
そのシステムの意図は複数あって
実はネガティブばかりではないのですが
そこに気付ける人は、たぶんまだまだ少ない。
エゴを解放するなら
とことんまでエゴに縛られるしかない
孤独から解放されたいなら
とことんまで孤独感に苛むしかない
物質世界から解放されるなら
とことんまで物質世界に縛られるしかない
乱暴に言えばこんな感じでしょうか。
体験し、学び
最後に選んで決断するのは「自分」です。
まだまだ生き辛い世の中ではありますが
それでも私は、今はもう
自分自身を理解し
自分にとって必要なあらゆる視点を持ち
自衛の手段も取れ
柔軟に動くことが出来るようになって
「楽」になりました。
言葉に表せば簡単なように見えますが
これを叶えるには
しっかりとした自分を軸にして
知恵があって
そこから動く行動力が備わって
やっと初めて叶うのです。
天性の才能…とかではなくて
たぶん地道な経験値が必要、そんな気がします。
だからある程度の年齢とか回り道とかが
実はとっても重要な
要素だったのかもしれません。
他者のエネルギー、宇宙からのエネルギー
そういったものに敏感な人は
各世代にいらっしゃいますが
若年層には特に増えているような気がします。
こんな世界の過渡期において
なんか可哀そうだなと感じることも
ありますが、まぁたぶん
ちゃんと色々織り込み済みで
生まれてきていらっしゃるのだと思うので
ひっそりと見守りたいと思います。
もうちょっと時間がかかるかもしれませんが
それでも今後は
生き辛くない世界になっていく。
それは確信しています。