
強みを活かしあって苦手を補い合える【互慈愛】な場所
あなたの人生は誰のもの?
わたしは「自分の人生デザインは自分で描いて楽しむもの」だと思っている。究極に個性を活かそうと思ったら「自分自身の持っているすべての個性を活かすためのデザイン」が欠かせないと思うから。
だから私の人生はわたしがデザインして責任取るものだし、あなたの人生はあなたがデザインしてあなたが責任をもって命をまっとうするものだと思ってる。
あなたの人生、自分で責任取れる?
「本当はAみたいになりたいのにまわりが許してくれないからBでいい」なんて生き方はあなたの人生じゃないと思うよ。
そりゃ、小さな子供のうちは自分で責任取るなんて負担が大きすぎて、親が一緒に責任取ってくれる分、多少は親の思うデザインに付き合う必要もあるよね。
でも、そのデザインが気に入らない、自分の個性を潰されると思うんであれば、自分で責任を取る力をつけて、一刻も早く自分の人生デザイン考えた方がいいと思う。
その個性は「勉強が得意」とか「運動が得意」みたいなおおよそ人類全員が当てはまりそうなことだけでなく、年齢とか、国籍とか、文化とか、障害があるとか、性別とか、LGBTQとか、HSPとか、それまでにどんな経験をしてきたかとか。
例え一卵性双生児で遺伝子レベルで似ているものがあったとしても、すべての人間は唯一無二なわけだし。
だから私は「○○だから」というレッテルは貼るべきじゃないと思ってて、ただ、分類するのに「日本人だから」みたいに区別したいのであればすぐに貼りなおせる付箋のようなラベルのようなものでいいと思ってる。
そうじゃないと「日本人だからこうあるべき」とか「女性だからこうあるべき」みたいな凝り固まったものになっちゃうと思わない?
複業家という生き方
そもそもわたし自身も「一般的な同世代」と比べたらかなりいろんな経験はしてきたと思う。でも、だから偉いわけでもすごいわけでもない。ただ単に「自分の嫌いな未来から遠い道を進んできたらここにたどり着いた」だけ。
いちばんのきっかけは高校時代に学校を巻き込んでひとり暮らしを始めたことにあると思う。それまでは親の価値観や児童・生徒としての在り方に振り回されてたから。
初めて自分の意志で脱線したのはあの時だと明確に思ってる。
…今考えても、わたしに協力してくれた先生に出会えたことは転機だったん
だと思う。
そんなわけで親の支援を断ち切った私は行こうと思っていた進学先に進むだけの勉強時間と資金を失い、「高校出たらどうするよ」の状況になった。当時ハマってた演劇でちょこちょこバイトしてたこともあったので、部活の先生には劇団のオーディションを勧めてもらったりもしてた。
…ただね、先生抜けてて。持ってきた応募要項、締切終わった後だったんだよね💦
気持ちはうれしかったけど。
かといって就職するなんて考えてもなかったから、好きなファッションも仕事にしたいなと思ってアパレルで働きながら雑誌とかイベントとかでなんちゃって芸能人みたいな活動も続けてた。
スタートがそこだから、「永遠の自分探し」みたいな職歴になって現在に至ってる。
最近では副業OKな会社も増えたけど、当時は正社員になったら副業NGのところが多かったから、正社員になろうなんて20代後半まで考えもしなかったんだよね。
…交通事故が重なって、お店に立つのが厳しくなったから「食わず嫌いはダメ」って一時期某金融会社の経理部で働いたこともあったけど、結局他の仕事もしたくて辞めちゃった。
その後はずっと派遣や契約で複数社と契約しつつ、その時々で気になる仕事を業務委託で請け負ったりで経験職種を増やしてきた。
これが意外と楽しくて。
決まった昇給や特大ボーナスを捨てた分、好きな仕事をできたし、会社の意向が気に入らなくても卑屈にならずに言いたいこと言えたし。
年子で子供を産んだんだけど、育児中もPTAとかの活動も楽しみながら仕事できるようにスケジュール組んでたので、しっかり子供の成長も楽しめたし、わたしにとってはベストな育児生活だったと思う。
45歳の頃派遣先で好条件で引き抜きしてもらえて、「年齢的にも年貢の納め時かな」とまた会社員に戻ろうかと思ったこともあったけど、結局やりたいことやりたくて辞めちゃった。
あの時、職場の先輩(とはいえ20代だけど)に「辞めちゃうなんてもったいないです」と言っていただけたのはありがたかったけど、「明日死んでも後悔したくない」がポリシーの私にとって、やりたいことに規制掛けられることのほうがよっぽどつらいから。
でも、複業を推す声も高まってきてるので、結局波に乗れたんじゃないかなと思ってる。ちなみに今は会社員として働きつつ、個人事業主として「日々の幸せの積み重ねをサポートする」をコンセプトにメンタルトレーニングやHSPカウンセラーとしても活動し、グリーフケアカウンセラー、ケアギバーとしても企業講演したりすりアキュムレーションコンサルタントとしても活動してる複業家なので、現役複業家として複業コンシェルジュとしての活動もしてたりする。
「すごいですね」「大変ですね」「お忙しいですね」と言われることも多いけど、会社員ならではの美味しいトコと起業家ならではの美味しいトコを欲張ってるだけなのでかなり楽しんでる。
「25歳までに地球が滅ぶならば」
Z世代なうちの子たちはまったく知らないけど、昔は「ノストラダムスの大予言」なんてものが流行ったのよ。私はそんなに信じてたわけじゃないけど、「もし本当に予言が当たるようなことがあったら、わたしの人生何のためにあるの?」って思ったんだよね。
もしあの予言が当たってたら、わたしの人生は25歳までも生きられなかったんだよね。…はずれてくれたおかげでその年齢に近づきつつある子どもがいるんだけど。でも、25歳までも生きられないって子供には衝撃じゃない?
もちろん、おばあちゃんになりたいなんて思ってないし、「25歳くらいならまだきれいなうちに死ねるかも」なんてことも過ったけど、地球が滅亡しちゃうんだったら25歳の自分が自分史上最高の自分だったとしても、誰も惜しんでくれないし、なんならその美貌(笑)の遺影を見てくれる人もいない。
そう考えたら「残りあと〇年」のほうがずっと重みを帯びてくるよね。高校で一人暮らし始めてもものの考え方とか価値観とか、大嫌いなはずの父親の傾向が身に沁みちゃってる部分もあったから「このままじゃ自分の人生を生きる前に終わる」ってかなり焦ったのは事実。
20歳になった時に「もし予言が当たっても後悔しないように明日死んでも後悔しない(そしてその後何年も生きてても後悔しない)生き方をしよう」って思ったんだよね。
25歳までは「どこで働くか」とか「どんな人生歩むか」よりも「やり残しをやりつくす」が最優先だった。
「25歳までに結婚したい」と思ったのは叶わなかったけど、25歳になる前に当時付き合ってた人に頼み込んで(その時は結婚したいとは思ってなかったのよね)フォトウェディングに付き合ってもらったり、ブライダルモデルして写真だけ撮ったり。
1995年の阪神淡路大震災もたまたま当選していた旅行日程が震災直後だったということであんなに犠牲者を出した震災だったのに、わたし自身は巻き込まれることもなく何事もなく過ごせてしまって…1999年7の月がやってきても相変わらず同じような毎日は続き、その後も北海道や熊本の震災、東日本大震災とか能登半島地震とか「世界の終わり」を感じるようなことはどんどん起きているのに、今日時点では個人的には被害を受けずに過ごせているのは「今、あなたは誰かをサポートするための立場にいるんだ」と強いメッセージを送られてる気がする。
自分の基盤が揺らいだときは、人に向けられる余裕ってどうしても少なくなるけど、今、わたしが大きなダメージを受けずにいられるのは、今、この時に苦しんでいる人に何かできることでいいから発信していくことだと思ってる。
ラナンキュラス百貨店
とはいえ、わたしには多額の寄付をする資産もなければ、フットワーク軽く現地サポートする体力もないので、できる事なんてたかが知れてる。
わたしができることはただひとつ、「どんな経験や背景や個性を持っている人でも受け入れて、各自が自分の個性を強みとして活かしあい、苦手な部分は気持ちよく補える場所を作ること」。
幸い、ファミコンが欲しいと言っている子供に、値段では何倍も高いけど、子どもにはまったく嬉しくもないワープロパソコン買っちゃうような親の元に育ったおかげで、同年代の女性よりはPC作業に強い。
さらには高校の時にクラスの半数以上を引き連れてスノボ旅行企画したり、ボランティア劇団の立ち上げや妊婦さんなら参加できるサークル立ち上げなど「場所づくり」「企画づくり」の経験はあるので、「全国どこにいてもオンラインで繋がれる場所」を作るんだったら自分でもやれそうな気がして始めたのが【ラナンキュラス百貨店】なんだよね。
元々は「そんなにどの仕事も楽しいなら起業したら?」と言ってくれた人のおかげで「起業とは何ぞや」な活動を始めてて、「自分は何屋さんになりたいか」みたいなことを突き詰めてたらいろんな素晴らしいスキルを持った方々と知り合えたんだよね。
自分ひとりで「こんな人助けられます」っていうよりも、コンセプトに賛同してくれる方々を集めて、「どんな切り口からでもあなたの人生変えるきっかけ提供できます」のほうが楽しいかなとか思っちゃって。
でも、なんせ個人がやり始めたことなんで、プラットフォームとして使ってるのはペライチだし、使用するデザインは分担して手伝ってもらっているとはいえ、イベント企画や運営はどうしても大変な部分があって。
テナントとして入ってくださってる方は、もともとそれぞれのサービスを持っている方なんで、運営をがっちりお願いするのは負担が大きすぎるしね…というところは大きな課題ではあるんだけど。
でも、この場所が訪れる方にとって「目からうろこ」な新しい人生デザインのカギを提供できる場所にしていきたいし、参加してくれているテナントさん達には「各自じゃできない新しい企画」のコラボ企画でさらに視野を広げてご自身の活動にプラスにしてもらえたらいいと思ってる。
そうやってひとつずつ積み重ねていくことで、すごくつらい思いをした方も心の傷がかさぶたになってきた頃に「よし、これならできる」ってまた立ち上がるお手伝いをしたいし、何か大きな壁にぶつかってしまった時には「ここにこれば乗り越えられる」っていう手がかりとして根付かせていきたいと思ってる。
例えば私個人の半生と照らし合わせると、「言葉がきつい」と言われてた子供の頃にビューティートークアドバイザーさんと出会っていたら、もっとたくさんの人と良好な関係を築けていたかもしれない。
発達障害のあるパートナーとの生活に疲れた時に、発達障害のことを理解する手助けをしてくれる人がいたらどんなに助かったか。
仕事や恋愛で迷った時、占いや診断を通じて内観させてもらえてたらもっと自信をもって生きていたのかもしれない。
育児にてんてこ舞いで辛かった時、そっと寄り添ってくれるカウンセラーさんがいたらずっと心強かったかもしれない。
頑張りすぎて息切れしそうになった時、癒してくれる時間が持てていたらもっと穏やかに過ごせたかもしれない。
そしてこれから先、介護問題に関しても専門的なアドバイスをくれる方が身近にいたら心強い。
過去を後悔しているわけではないけれど、ゆりかごから墓場まで「ここに行けば信頼できる人がいる」ってすごく有難いなって思うから。
今はまだ、個人スタートで「あったらいいな」を作りかけている不格好な場所だけど、共感してくれる方を増やしていけたらもっともっといい場所になっていくと思ってる。
長く続けていくためにはテナントさんのマネタイズも考えていかなきゃならないので、もっと安定して還元できるようにわたし自身もまだまだ発展していかなきゃいけない。
それでもやっぱり、「互いを大切にしあえる互慈愛な場所」を叶えたいと思う。