
今、気になっていること。
駅の、エスカレーターに乗り込む。
階段に隣接されてるタイプの。
ふと目につく。
階段とエスカレーターの境界にあるような、
太い仕切り?
傾斜が始まる前の直線の部分。
そこに、ものが置いてあるのだ。
3回登ったとして、2回はあるくらい私は見かける。
ペットボトル、お菓子のゴミ、髪ゴムなどなど。
中でも、ペットボトル率が高いな。
いつも思う。
どうしてここに置いてしまいたくなるのか。
なぜ、置いてしまうのか。
置いているつもりで、捨てているのか。
捨てるつもりはなかったけれど、エスカレーターが自分を連れていったから仕方ない的な開き直りなのか。
私はいつもそこで妄想する。
その、置いた人物のことを。
例え話。ちょっと下品かもしれんが。
こういう時の気持ちと近いものがあるのではないか。
そう、おならだ。
例えば、私がそうしているとか、していないとかは関係なくよ。
ある人は、
その途中で、「おなら出そうだな」と思ったとする。
で、出してしまったとする。
そのとき、すぐさま走り去ってみたとしよう。
その、ぷっとした地点にもういない状態の自分を想像してみてほしい。
出しただけであって、もうそこには指紋も人の気配もない。
残るのは空気だけ。
なんだか、罪悪感が少ないと思いませんか?
むしろ自分がそのプットポイントを作り出したなんて
感覚、無くなりません?
これをエスカレーターのあの置いてしまう人に重ねると
同じ心理状態が働いてるのではないかと思うの。
ペットボトルを、エスカレーターに乗り込んだと同時に
横のラインに置きます。
その後、もう振り返りません。
ただただ前を見つめて、一定方向へ流れていく。
自分の意思はなく、自動で。勝手に。
この時点でもう、誰が置いていったのかは藪の中。
後ろの人がほぼ同時に乗り込んだ場合は後ろの人が後ろから気づいているかもしれない。
けれど、その少し後に乗った人にとってはもう、エスカレーターに乗り込んだ人のうちの誰かが置いた、という認識になります。
置いた本人は、エスカレーターから降りたらもう無関係。
そのまま電車に乗って、もう思い出すこともないかもしれない。
何が言いたいのかよくわからなくなったけれど、
なぜ、そこには「捨ててしまえる」人が多いのかなと
思っただけの話です。
実際、どこであってもポイ捨ては良くないけれども
毎回、あそこに何かしらゴミがあるのをみると、考えてしまいます。
エスカレーターに乗り込んだと同時に置いた場合、
そこにはどこか、置いていきやすい人間の心理が
あるのじゃないかと。
つまらぬ話を失礼しました。
こういうこと、一人でぼんやり考えられることも、きっと大切。
階段側から置いた可能性もあるけどね