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姉が教えてくれた食べる楽しさ

私が覚えている、自分で作ったといえる料理の記憶は、小学生か中学生くらいの頃に作り始めた味噌汁だったと思う。

両親は忙しい人だった。一時期から晩ご飯の時間が21時を過ぎるようになり、少しでも早くご飯を食べられるようにするために味噌汁だけは私が作っておくことになった。たしか兄も家にいたはずだが、高校の部活は遅くまでやっているもので、自然と私が担当することになったのだろう。

うちの味噌汁は、味の兵四郎のあごだしを使ったものだった。具は冷蔵庫の中から適当に選ぶ。豆腐とわかめ。油揚げと玉ねぎ。何でもいいから2つ選んで、あごだしと一緒に具を煮る。最後に味噌を少し溶けば出来上がり、という簡単な作業も、子どもの頃の私にとっては立派な料理だった。

母の手伝いをした記憶は、少しだけある。左利きの母が野菜の切り方を教えるのに少しだけ切って見せて、野菜をくるりと逆に向けて右から切れるようにしてから私にバトンタッチ。右側に置かれたドラえもんの包丁をよく覚えている。

もちろん母の料理は好きだった。大人になった今思い返せば、毎日仕事が忙しい中、よくあんなにしっかりとした食事を作ってくれたものだと思う。母は偉大だ。

父の料理も好きだった。土曜のお昼ご飯に作ってくれるうどんは今でも食べたくなる、思い出の味だ。うどんスープで簡単に作れるそのうどんには、わかめやかまぼこ、天かす、とろろが決まってトッピングされていた。シンプルなその味が、私はとても好きだった。

だけど、私に作る楽しさ、そして食べる楽しさを教えてくれたのは間違いなく姉だったと思う。姉がいなかったら私は今毎日料理を作れていないかもしれない。


大学生になった時、年の離れた姉と2人暮らしをすることになった。1人暮らし歴が長い姉は、ほとんど毎日私に晩ご飯を作ってくれた。今、当時の姉と同じ歳になって改めて思う。私にはたぶん無理だ。姉はすごい。

そんな姉との2人暮らしでは、ひとつ決め事があった。リビングのカレンダーにシールを貼る。シールの色で、晩ご飯のことを共有した。姉がいらない日。私がいらない日。姉が遅くなるので私が作ってくれていると嬉しい日。

この、姉の帰りが遅い日の晩ご飯を作った時が転機だった。姉がとても喜んでくれて、私は初めて人にご飯を作る楽しさを知ったのだと思う。

料理は姉の真似事だった。今の冷蔵庫の中身も、姉と暮らしていた時とあまり変わりない。姉は料理をすることが好きな人だった。作った料理のレシピを楽しく話してくれた。私も作れるものは特に丁寧に、簡単にできることを教えてくれた。姉のレシピで、今も定期的に作っているお気に入りのサラダがある。

ちくわとみょうがのサラダ。
材料は同じくらいの大きさに細切りするだけ。ボウルに入れて、マヨネーズをくるっと。醤油も少し回し入れて、かつお節のパックを1袋。それらを混ぜるだけの簡単サラダがとても美味しくて、特に夏は毎週食べている。

姉のようになれるとは到底思わない。得意どころが全然違う姉妹で、だからこそ姉も私にしか出来ないことを素直に尊敬してくれて、それが私にはとても嬉しかった。そんな姉に、料理の上手な姉に、「作ってくれてありがとう」「助かる」と喜んでもらえたら、それはそれは嬉しくて。私はいつの間にか多くの料理を作れるようになっていた。

姉と食べるご飯はいつも美味しかった。私の友人が遊びに来た時に振る舞ってくれたフレンチトーストも美味しかった。実家で飼っていたペットが亡くなって、2人で泣きながらご飯を食べた時も。2人で食べるご飯だから美味しかった。姉には感謝してもしきれない。

そんな風に作る楽しさを教えてくれた姉のおかげで、私は今も楽しく料理をすることができている。今度は私が、姉の子どもに何かをあげられるといいな、なんて思う。



最後に、美味しいものを食べる楽しさを教えてくれたのも姉だった。

魚田南さんの京都めし漫画。そこに登場するお店に食べに行くこともまた楽しかった。大人のチキンライスは鶏の中にライスが入っていて凄かった。ベーグルは大好きなサーモンが美味しかった。

姉が結婚して、2人暮らしが解消されてからも、たまに姉の家で食べるご飯は美味しかった。漫画に登場するお店に食べに行くことも、友人と続けた。

写真は、グリルデミの昔ながらのナポリタンwithデミ玉ハンバーグ。

たくさんの「美味しい」を「幸せ」と結びつけてくれた姉との思い出の味は、これからも大切にしていきたい。

#料理はたのしい

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