第2回勉強会(2021.1.15)より 第1話

(勉強会の議論を連載していきます)

日本の宇宙開発の歴史
   第2回目の勉強会は3ヶ月後の1月15日に行われた。前回のアンケート結果を踏まえ「日本の宇宙開発の歴史」を振り返ることから始めた。東京理科大学の木村教授が、自らの経験を通して感じてきたことなどもあわせて解説をしてくれた。
 どこからが宇宙開発か・・・といえば、人類が最初に衛星を打ち上げた1957年のスプートニク1号からだろうか。その頃日本が何をしていたかというと、第2次世界大戦後いくつかの技術については開発を禁じられていたものの、1952年からは航空分野の研究開発が再開し、東京大学に設置された宇宙航空研究所で、ペンシルロケットの開発が始まっていた。しかしあくまでも科学探査という条件付きで、研究していたのは固体燃料ロケットだった。
その後時代が経っていく中で、放送や通信のエリアで、日本でも宇宙を産業として利用していく議論が始まり、1964年科学技術庁(当時)に、宇宙開発推進本部が設置された。
 そして1969年、アポロ11号で人類が月面に立った同じ年に、科学技術庁、通産省、郵政省のもと宇宙開発事業団が発足、国産の通信衛星、放送衛星、気象衛星の開発と、それを打ち上げる液体ロケットの製造を目指す事になった。先の科学探査という目的とは大きく異なり、通信や放送を支え、気象を予報するという実務のための衛星開発とその打ち上げロケットの開発が始まったことになる。そしてこれ自体は事業団であるため、別途文部省に宇宙開発委員会というものが設置され、宇宙政策についてはここで議論をし、内閣総理大臣に諮問する委員会として機能していった。

挫ける国産衛星産業強化の夢
 こうして日本の宇宙産業もスタートし、80年代には通信などにおいて日本の技術は強くなり、BSやCSなど通信分野で国産製品を産み、産業を強化していったが、その望みを挫かれることになる。
 1980年代、米国の貿易戦争の相手は日本だった。米国は日本に対し自動車貿易赤字を抱え、1989年、スーパー301と呼ばれる通商交渉の中で衛星市場についての開放を求めた。これを政府が受け入れ、米国から製品が入ってきたため、国産品は対抗できず、産業として育つ機会を失った。「商業用の放送衛星とか通信衛星開発が政策的に取り扱うものでなくなってしまった」と木村教授は当時を振り返えった。
 そのH2ロケットの連続失敗などがあり、日本の宇宙開発は冬の時代に入り、郵政民営化など行政改革の流れから2004年に宇宙開発事業団と似たような機関が統合されJAXAが生まれた。振り返ってみて、日本には一貫した強い国の政策というものがなかったと木村教授は感じている。その影響か他国に比べ我々一般国民も“宇宙”というと何か、SFファンの世界というか、研究の世界というか、通常の産業ではないような印象を長く持つことになった。

まだある日本の役割とその重要性
 この間米国でも90年代にはチャレンジャーの、2000年代にはコロンビア号の爆発事故も起き、直近10年はISSへ宇宙飛行士を送るのにもロシアのロケットに頼っていた。その一方、通信やGPSなど宇宙は生活になくてはならないものになった。衛星軌道上に漂うデブリ問題や、新たな米中のハイテク覇権争いの影響といった様々な問題もある中で、宇宙産業の発展は国の政策としてどのように位置づけられるべきなのだろう。またその中で日本は産業をどのように発展させ、イニティアティブをとっていけるのだろうか。
 2008年、宇宙基本法というものが施行された。これまで各省庁が別々に取り組んできたが、内閣府に司令塔をまとめ、そこに宇宙戦略開発本部を設置し、宇宙基本計画を策定、毎年見直しを行うようになった。そこでは、安全保障、災害対策、科学技術、経済成長のためのイノベーションなど、国家として取り組むための目的があげられている。これを見る限り、宇宙産業は国家が力をいれて推進させなければならない一つと言えるだろう。
木村教授は、技術的には日本がイニティアティブをとれる分野、期待される役割は十分にあると考えている。木村教授が取組んでいるようなデブリ問題もそうだが、滞在・居住に関する技術は、日本企業は十分活躍できると考えている。水や空気の正常化技術や、放射能を遮り快適なスペースを確保する居住ユニット、狭い空間で快適に過ごすための技術、月面や宇宙空間で育てる食品などに取り組んでいる企業がある。それらの技術は宇宙開発で役立つだけでなく、環境問題を抱える地上でも役立つだろう。日本企業が適切なタイミングに適切なパスを得て、これらの開発に参入し取り組み、その後地上での活用も含めた事業化に成功していけるような、一貫した政策が必要だと、この勉強会の冒頭で木村教授は強く訴えた。

(続く)

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