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感動と高揚を切断したら、高い場所で退屈するようになった。

空に近い場所が好きな友人がいます。
初めてその人に会ったとき、こう言われました。
「高い場所に課金するの大丈夫な人ですか?」
偶然にも、自分は大丈夫な人でした。

どうして人は展望台にお金を払うんでしょうね。
風景を一望するそわそわ感を、感情の高ぶりの一種だと捉えているのだとは思います。
ただ冷静になって考えてみたら、それは非現実感の一種でしかないわけで。
東京タワーだのスカイツリーだのサンシャインだの、わざわざ各所の物御台に足を運ぶような奇特な人物っているんでしょうか。
自分は違いを知りたくて全部登りましたけど。

結果、高所からの景色にさして違いはないことがわかりました。
333mも634mも、建物が豆粒に見えるという観点でいえば同じに思います。見えるって言われてる富士山も天気が曇ってて全然見えないし。
回数を重ねるごとに、フィクションのキャラクターがやっているような感動はどんどん色を失って、薄いグレーが胸をなぞるだけになりました。
ただ記憶が脳に蓄積して、過去の記憶が潰される。
記憶の厚塗りが退屈って色を濃くしていく。

いつのまにか、自分は感動を敵視するようになっていたらしいです。
こう、なんでもかんでも俯瞰的に見ているうちに、感動にすらストップをかけるようになっていて。
高い場所に登ってもスリルを感じるだけで、それを体験の価値と接続できない身体になってしまいました。
「夜の高速は眩しくて綺麗だな」とか「意外と移動できそうな場所があるな」とか「ここからモノ落とせば10円玉でも人を殺せるんだよな」とか、そういう感想ばかりが浮かんでは心の海に消えていきます。

だから、好きで高い場所に登っている人を見て驚きました。
理由を深掘りすることは流石にしませんでしたが、今度会ったら聞いてみようと思います。

ちなみに好きな東京の展望台があります。
渋谷パルコの屋上です。

街って汚いんですよ。
室外機とか給水塔、排気の管とか。
モダンでクールでござい、と歌舞いている渋谷を一望すれば、その裏側がなんと醜く見えることか。

でも、その不格好さが好きなんですよ。
分解された家電の中身みたいで。

今週のテーマ:今までで一番グッときた景色

小学生か中学生のころ、両親といっしょに熊野古道を歩きました。
死ぬほど辛くて脚がぱんぱんになりました。
そもそもなぜ登ることになったのか、いまでも意味がわかっていません。
親が二人とも体育会系だと、文化系の子は大変です。

日帰り旅行だったので、一つのポイントである馬越峠という場所で折り返すことになりました。
で、その馬越峠にあるのが天狗倉山。
山といっても、岩山だった気がします。
ようは岩が連なって山のような高台になっているのです。

せっかくだから登ろうとなったので、登りました。
岩を乗り越え、鎖を掴み、岩山の頂上へ。

伝わると思いますが、自分は達成感や感慨を少し馬鹿にして生きています。
楽なものは楽に終わった方がいい。
昔から痛々しくスレていたので、景色を見たときも同じだったと思います。

森の奥、開けた場所に広がる海と港、それから家々。
精巧な模型を見ているようでした。港の細かな凸凹までくっきりと見えるのです。家の屋根がそれぞれの色を放って、海は白く煌めいています。

じんわりと風景が視界に染みついて、風景の実在とこれが見えているという現象を、徐々に認識していきました。

あれは達成感や感慨ではないと思います。
そんな抽象的な感覚ではなく、感動とはもっとそれぞれの器官で捉えた細かな発見を指すのだと、自分はそこで呪われてしまったのかもしれません。

めんどくさい奴!

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