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半分、閉じる
ある時、何も喋れなくなることがあります。
長い間その原因がわからず悩みながら、それすらも受け入れて、行動の原動力として昇華してきた自分がいます。
ただどうも最近はそれが酷くなってきて、限界を迎えつつあります。
頭の中で情報が完結しない、無量空処を喰らっている気分です。
でもこの数日、色々と大きな発見があったように思います。
それは、RHRのみなさんが色々と教えてくれたおかげだと思います。
自他の境界の壁を取っ払って、心でわかり合いたい渇望は間違いなくあって。
それが「なめらか」と表現していたものだと再発見しました。池田さんが教えてくれました。
「なめらかな社会とその敵」という本があります。
起業家の鈴木健さんによる、分人主義やインターネットを活用した、なめらかな社会創造の本です。
しかし、批判が多い本でもあるんですよね。
例えば投票制度について、分人的な概念を用いて1人の票を0.6票賛成・0.4票反対にすることになるのですが。
でもそれは、0.8票を白票に投じているのと同じ。
どうやら、なめらかではないこと、境界があることによって、救われているものも多い。
それを社会レベルでは分かっていたのですが。
澤さんの「ざらついたマルチバースの社会」には救われました。
ああ、自分と社会をこんなにも鮮やかに繋げる言葉があるんだ、って。
社会についてはマルチバース的な境界が必要と思っていたのに、自他の境界については取っ払おうとする自分がいたことに気づきました。
そして偶然なのか必然なのか。
「心は半分開いても、半分は閉じておくんだよ」
望月さんが曲を通じて教えてくれました。
色々と繋がった気がします。
自分がなくなる感覚は、心を開きすぎていたのか、と。
会話に入るのが一生苦手なことが影響して、仲良くならねば、もっと言葉を話さなければという幻想に苛まれて、自分を開けっぴろげにしていた。すると自他の境界をなくそうとする心理のあまり、みんなの言葉で自分が消えてしまっていた。何か話そうという義務感にも苛まれてしまっていた。
心の開きすぎと閉じすぎは、紙一重だったんですね。
そして、気づけばこれらが僕のコンセプト「溢液」の説明にもなっていました。
他人の価値観や、押し付けられた役割を気にせずに(不快:「共同幻想」)、
ちょうど良い距離感の中で、自他ともにコンセプチュアルな世界を生きること
(快「Collectif」:その構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態)。
それが結果的に、愛情の循環が見える状態になる。
自分の中での循環と、自他の間の循環でケアし合える状態
(コンセプト「溢液」:植物の葉の先に朝現れる水滴。代謝が良い時に起こる現象で、昼になると蒸発し、自然界を循環していく)。
社会規模で説明しようとしていたから、あんな長ったらしい説明になっていたんだなあ。
澤さん、ようやく端的に説明できるようになりました!
やりたいことも明確になってきたように思います。
面接を担当してくださった方々、すみませんでした。
少しずつ立ち直れそうです。
今週の質問:「あなたにとって捨てそうなものを,面白く使うアイデア(もしくは経験)を教えてください」
自分の質問のくせにめちゃくちゃ悩みます。
私の通う大学にある写真部には、ジャンクに近い価格のオールドレンズを改造する、変人の集まりがいます。
レンズをオーバーホールして、後ろ玉を逆にします。
無限遠にピントが合わなくなるのですが、これがまた幻想的な写りをします。
幻想の世界を見るのは、写真に留めておこうと思います。笑
そして、Ringneお疲れ様でした。
ひとまず澤さん夫妻のお写真。
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