ピクミンの死から「笑い」を考える。
ピクミンが死ぬと笑ってしまう自分がいます。
もちろん、自分がプレイしているときは後悔しかありません。
何も言わずに付いてきてくれるピクミンが死ぬのは、基本的に自分に原因がある。運送路の安全確保、一時的なパニック、単純な不注意。
ほんの些細なミスでピクミンは死ぬ。
マリオは「ミス」、ポケモンは「ひんし」「きぜつ」と言いかえてくれるのに、ピクミンだけは絶対に「死」。公式紹介動画では「力尽きる」でした。
そんな殺生な……。
ピクミン4がいよいよ発売となり、switchでもピクミン1、ピクミン2が配信を開始。ピクミンシリーズが全作switchで遊べるようになり、いろいろな配信者がピクミンを実況プレイするようになりました。
初見プレイ。ベテランプレイヤーによるサクサク攻略。
どちらも味があるのがピクミンのいいところ。
そして気づいたのです。
ピクミンが死ぬと笑ってしまう自分に。
ピクミンは想像しているより残酷なゲームなので、その死にざまは決してポップではありません。
焼死、溺死、感電死、爆死。轢殺、切断、貫通。
一番多いのが、原生生物の餌食になること。
死ぬときにはピクミンの悲鳴が上がり、死亡すると霊魂が出ます。
おそらく死そのものが面白いという、サイコパスじみた楽しみ方ではないと思います。
かといって、緊張と緩和みたいなことでもないだろうし……。
(ちなみに、松本人志はピクミンのファンらしい)
「死」と「笑い」をなんとか紐解こうとしていると、コロコロコミックを読んでいた小学生時代を思い出します。
『でんじゃらすじーさん』で急にキャラが死んだことになると、それだけでめちゃくちゃ笑ってたな、なんて。
配信者のプレイでだけ笑えるということは、ある種の「落差」を笑っているのかもしれません。
「上手くいく」「安心しきっている」と思っていたところから突然「死」が発生し、慌てふためいたり驚いたりする様子が「滑稽」に映る。
さっきの『でんじゃらすじーさん』の話と合わせると、ちょっとだけ何か見えてきました。
つまるところ「死」は、そうした「落差」を発生させる現象として妙な説得力があるのでしょう。
「大怪我」や「大借金」ではそのキャラが再起する可能性みたいなものがまだ残されていますが、「死」は絶対に覆せません。
そうした「死」の不可逆性こそが、雑音のない純粋な「落差」を生む。
だから「死」はオチとして機能しやすいんでしょうね。
今日の日記ちょっと怖すぎるな!?
今週のテーマ: 『父母への手紙』とします!これが最期のつもりで書いてくださいませー