遺書
2028年のわたしは笑っていました。たとえばそれは夕方の曇り空の下で。きっと6月下旬の首都高をオープンカーで走っているのだ。わたしはそのとき感じる。どこか哀しさにも似た幸せを感じる。もしかしたら涙が溢れてしまうのかもしれないね。もしかしたら急に叫びたくなって声が出なくなるくらい、息が吸えなくなるくらい大声を出してしまうのかもしれない。要らなかったものをたくさん思い出してそれでもやっぱり必要だったねって笑えてるといいな。くるしさを誤魔化さないで生きるなんて難しいよ。何に於いても向き合うって切ない。夢をみて目が覚めて安心する。そんな朝が大嫌いだ。足元が何かに、自分に掬われているから見てくれだけの、中身の無い自由しか得られない。自由ってあんなに怖くてグロくて寂しいのに、どうしてみんなそれを求めるの。きっと君の目にぼくは等身大では映っていないんだろうね。君の目に僕はどう映ってる。きみにはぼくがどう見えてる。