silent、フィクションで障害を扱うことによせて
silentが終わった。いろいろあったけど「優生」のことは、さすがに看過できなかった。それ以外はまあ、アップデートがあったのかなと思って見た。豊川悦司が孤独なろうの青年を演じて手話ブームを起こした「愛していると言ってくれ」が1995年だというから、四半世紀を経て、何が起こるか確認しなければと思っていたこともあり、silentはリアルタイムでないにせよ、週1のペースで拝見した。
声でしゃべれない人を扱うと画面が見てもらえる
「聞こえない人」を扱うと言うより、「(声で)しゃべれない人」を扱いたいという、演劇や映像界の欲求があるのだろう。西島秀俊が主演した村上春樹を原作とした「ドライブマイカー」には、それにとっても都合の良い人物が登場していた。つまり「周りの人が何を話しているか聞こえないわけではないのに、自身は手話で発信する人物」である。
なぜそんな登場人物が作られるのかと言えば、「『ことば』に縛られない演技を視覚的に見せられるから」なのではないかと思う。つまり「声」がある以上、声で満足してしまうようなところがある。近年で例えるなら、藤原竜也が叫ぶときのカタルシス。そういうのを敢えて使わないで、どこまで表現できるかみたいな挑戦だと思ってるのではないだろうか。そして、ここでいう『ことば』は聴衆と共通した日本語などである。「ドライブマイカー」ではこの言語の違う人たちが一本の芝居をやるという劇中劇が描かれていて、「ことば」に頼らない演技を見せたい、その究極が「声を出さない」役者がいることだったのかもしれない。
私は「耳の人」である。手話を研究対象にしていても、あくまでも耳の人であることを自覚している。眠くて起き上がれない時間帯、子どもがごそごそと何をやっているか、耳を澄ませて察知している。「海苔をこっそり食べているな」とか、「朝からミロを飲んでいる」とかそれくらいのことは、耳でわかる。テレビドラマもだいたい耳で見ている。「ほら」とか「これ」という台詞の時だけ画面に目をやり、後は洗濯物を畳みながら聞いている。台詞回しが上手な俳優さんが出ると「うまいな」と思い、あまり視覚的な演技に注意が向かない。物語を声で追いかける「耳の人」である。
多くの「聴者(聞こえる人)」は耳の人である。テレビドラマの画面をいくら作り込んでも、映像をしっかり見ている視聴者はそこまで多くないのではないか。当然、映像は映像作品の文法に沿っている必要があるが、物語を進めるのは脚本であり、声の台詞である。それ以外の「演技」として目立つのは「半沢直樹」で見たようなサラリーマン歌舞伎の顔芸であり、あとはキャラクターを特徴付ける美しいたたずまいだったりする。どうやら、それへの対抗手段として「手話を話す人」を出してきたなという印象があった。
silentでは、無音のシーンが話題になっていた。そしてTVerでの見逃し配信には、解説放送付きのものが別に用意されていた(放送時も副音声で解説放送があったろうか)。無音のシーン、あるいは聞こえない人(ろう者の奈々や、中途失聴者の想)が話す台詞は字幕化され、そのときは顔を上げて画面に集中しなければ、話がわからない。一方で、川口春奈さん演じる主人公のヒロイン紬は、声をつけながら手話で話す。「手話をつけながら声で話す」かな…。
その差がどこから来るのか、彼女は声を出さなかったり出したりとフワフワした使い分けをしている。手話を話す人たちの間では、それは相手に依って変わるものだ。しかし、紬は一貫しない。そしてそれはドラマの演出に都合がいいからそうなっているようである。紬が全く声の演技をしないと、無音になってしまい、音で聞いて理解する人への負担が大きい。たまに重要なシーンだけ声をやめる。映像の作り込みをより重視する。そういう風に作品ができている。ずっと無音だと、画面を見るのをやめた瞬間に、物語から引き剥がされてしまうので、それを避けるために、紬はご都合主義的に声を出すのだ。
知り合いが、silentはずっと見てないといけないから画面の前で正座して待ってるといっていた。そう、普段のテレビドラマは、聞き流しながらでも見られる娯楽として存在しているのに、そういう意味で特殊な地位のドラマである。視聴者が画面を食い入るように見れば見るほど、没入感は上がる。作り込まれた映像(プロモーション映像みたいだと書いていた人もいた)を、そうやって見せつけるような演出は、ちょっとお腹いっぱいな感じであったが。
経済的な事情
手話の流暢さでいけば、当事者の役者を起用するのがいいのだろうが、大半の視聴者がその真贋を見極める目を持たないために、それに目をつぶったとき、夏帆さんの演技はやはりよかったと言わざるを得ない
そもそも、手話について気にし始めると気になって見てられないので、字幕と表情しか見ていない。手話話者は気になりすぎて、見るのをやめてしまったという人もいる。多分、演出家も脚本家も「手話の善し悪し」には興味がなく、視聴者がより画面に集中することだけを企図していて、字幕に出る台詞が本物の台詞で手話は添え物なのだ。そして、手話を見せるような画角で取れていないし、手話だけで見ていても何言っているかわからないところがあるから、結局字幕を読むしかないのだ。
アップのショットで視線が震えるところ、表情だけで声がなくても人の気持ちを引っ張れるほどの演技というのは、技術が要ることで、彼女が助演に配置されていた動機はわかる。音があろうがなかろうが、目を離せない演者だろう。主演の2人はビジュアルや人気ありきで選ばれ、演技力の高い助演を配置すべき役柄に、ちゃんと演技力のある夏帆さんが配置されているのは「セオリー」って感じがする。
しかしそこの席は、手話を扱うドラマなら、当事者を入れるべき席なのだった。「信頼に足る演技力がある人がいない」のかもしれない。そういう意味では、LOVE LIFEでろう者の砂田アトムを3人目のポジションに入れた深田監督は冒険をしたと思うし、それが評価されている。そもそも「いない」のではなく「知らない」また、「知られていない」そして、「養成されていない」かつ、「出しても儲からない」こんな感じだろう。それに、こういうサブ的な役って、やっぱり演技力要るから最初からハードル高いよね……。とはいえ、ろう者の演者がいないわけではないし、とにかく「知られていない」のが問題だ。
ルッキズムに賛同したいわけではないが、アメリカでモデルをやっているろう者のNyleさんみたいに、とりあえず見た目も武器にして有名になって、芸能界で演技するみたいなろう者が出てきてもいいんじゃないかなと思う。
(こないだ久々に「手話者は面白い顔になる」と手話学習初心者だった私に言い放ったYさん(ろう者)に会ったのだけど、「表情が大きいからね」という彼の眉は、サラリーマン歌舞伎の役者より大きく動き、確かにどちらかといえばディズニーキャラに近い動きだなと思って眺めていた)
平成から令和の手話ドラマへのアップデート
当事者団体に監修を依頼しているとか、取材されたりした人がちらほらいるので、この設定を作り込むためにそれなりの労力を割いたことはわかる。「愛していると言ってくれ」が完全にフィクションだなといったところからは、大分進歩したんじゃないかとも思う。例えば、幼少期に失聴して「大人の声」を持たないはずの豊川悦司が、内言を声で演じていた「愛していると〜」から、生まれたときからの「ろう者」の奈々(夏帆)が一切声を出さなかったこと(お手紙を読む声も読み手である春尾の声だった)は、評価できる。これは、取材したり、監修の言うことを聞いて作ってるからなのだろうか。「優生」事件だって、きょうだいのエピソードを盛り込みたいみたいな意気込みは感じられた。
一方で、やっぱりご都合主義だなと思うような暴露もあった。東京都聴覚障害者連盟の方は、企画の段階で設定について相談されて、苦肉の策をひねり出して「あげた」ようだ。
声を出すのが怖いんだ、というエピソードは結構描かれていたが、まずその設定が「声を出さないキャラクターを作りたい」という動機ありきで逆算して構築されたことがわかる。つまり、「中途失聴者の困難を描きたい」のではなく「声を出さない(出さなくなった)人との恋愛を描きたい」からそうなった。それをうまいこと作品に昇華できていたかというと、ちょっと疑問が残る。
中途失聴者にも、多様性はある。しかし、物語の軸となる「手話」を使う動機について、説得力が揺らいでしまうエピソードが演出の都合で配置されているのが目に付く。
物語のほころびは初回からあって、想は紬に再会したときに手話で話すのだけど、これがなんでなのかわからない。あとから、想は「奈々としか話さなくていい」という動機で手話を始め、ほかに手話を使う友人を作っていないことがわかる。もう何年も経っているのに。この彼の手話使用のリアリティはよくわからない。想が手話がわからない紬に手話でまくしたてたのは、ドラマチックだけど、それはただの演出の都合にしか見えない。なんというか「映え」重視で、イマイチ心情の流れがわからない。
また、想というキャラクターは「ことば」についての作文を全校生徒の前で読んでしまうような子で、職業も校正を選ぶような「ことば」マニアのくせに、手話に対しては、個人語のレベルでとどめているのもよくわからない。ある言語を言語として習得するなら、その「語」が誰にどのようにどんな場面で使われるのか、気にして然るべきだ。障害受容の道半ばとはいえ、「日本手話」のようなものを使うことを選択している以上、それがどんな言語か気になるような人物であって然るべきなのではないか、と私は思う。そうでないなら、やはり対応手話を使うことを選んでも良かったのではないかとも。日本手話を使うのは「人」に出会ったからかもしれないけれど、その人はやはり日本手話を使う集団に属していて、それが強固な結束力を持つ集団である以上、そこにアクセスしないのに日本手話を「ことば」として使っていいのか、逡巡するような思慮深い人物であって欲しい、と思った。
この背景の掘り下げを、なぜしなかったのだろう? と思っていたが、どうも「日本語が好き」(それ以外には興味が無い)と脚本家が言っていたのが炎上気味だったが、なるほど、それで説明できてしまう。つまり、日本語とは別の言語である『日本手話」にも興味がないらしい、とすれば納得がいく。
ご都合主義と言えば、慌てて当事者俳優を配置したのは、結局最終回まで見てよくわかった。奈々の友達と、春尾の同僚として相関図に載っている「ろう者」俳優二人は、相関図に出ている人たちの中で最も扱いが軽かったと思う。どんな性格かもわからないまま、最後まで終わってしまった。想の妹、紬の弟レベルとまでは行かなくとも、想と湊斗の旧友とか、昔の先生より印象が薄い。(先生は相関図に載ってたけど、サッカー部の友達は載ってなかった。サッカー部の友達と、春尾の同僚、どっちが印象に残ってるか? どっこいどっこいだろう)相関図に載るくらいだから何かあるのかな? と期待した私の気持ちを返して欲しい。最終回に申し訳ない程度にさらっと登場させて大団円にしていたが、あれこそ「ご都合主義」である。
リアルとの接続
「愛していると言ってくれ」は、中学生の時、ちょっと見ていた覚えがある。母が見ていたのを横目で見た程度だったが、実際のところ、「リアルな障害者はあんなきれいじゃないよね」と偏見のようなものを持っていたことを思い出す。
あの頃、手話学習者が突然増えたという。今回も増えるだろうか。川口春奈さんが手話を学びはじめた頃に読んでいた「はじめての手話」、売れてる?
UDトークの認知度は上がったかも知れないな。
最終回で、想の妹の萌が、紬の弟に渡していた本のうちの一冊はこれだった。亀井先生は、人類学者である。妻の秋山なみさん(ろう者)との共著「手話でいこう」もおすすめだけど、この本はなかなか手に入れにくいかも知れない。
さて、リアルとフィクションをつなぐ身体としての役者がいる。私は演劇のことはよく知らないし、幼い頃に拾ってきて読んだガラスの仮面というフィクションにバイアスされている。ガラスの仮面では、ヘレンケラー「奇跡の人」を演じるマヤと亜弓の努力が描かれていた。「自分が経験したことのないことを、なんとか経験して体現せよ」というミッションとして課される「見えない、聞こえない、話せない」は強烈なインパクトがある。
演技のリアリティって、多分「本当のリアリティ」である必要は無くて、「見せ方」「説得力」さえあればいいというのが、姫川亜弓と北島マヤの差分だとよく語られていた。一番最初のパントマイムの課題とか、そうだった。
これって、別に演劇に限った話ではない。研究発表でも同じだ。大抵の研究は、本当に近いトピックをやっている人以外には、簡単には理解できない細かい点を論じている。だから「わかる人にはわかってることを示す一方で、わかっていない人にもわかった気にさせる」技法を磨けと言われた。大半の聴衆は前提から話してもその場ですべては理解できない。だから、「説得力」「見せ方」が問題になる。もう一方で「わかってる人」——例えば、先行研究をやっている人だとか——に隙を見せてはいけない。ときに質疑で、なぜそこを話さなかったのかと突っ込まれる。突っ込まれてから説明しようとすると、どこから話して良いか迷子になることもしばしばだ。だからその人にここまで私はわかってますよ、と見せてポイントを外さず、かつそれ以外の人たちにもいかに自分のやってることがおもしろいかを見せる。これが、学会発表に要求される技術である。実際のところ、研究で本質的なアップデートはこの「わかっている人たち」がジャッジするところがあるので、本来的な聴衆はその会場にいるただ一人かもしれない。
そのアナロジーで考えると、今回のドラマ、「わかってる人」の設定が、多分業界の人だった。ドラマや映像を作る人とか、音響の人とか、そういう技術がわかる人に対して「新しいことをこれだけやりました」というプレゼンテーションをしつつ、一般大衆に向けてゆるい恋愛ドラマを提示した。これは、TVerで配信されている「最強の時間割」という番組で、このドラマのプロデューサーが撮影について得意げに語っているのを聞いてよくわかった。
一方で、題材にした聴覚障害の多様さについて「わかってる人」に対しては、当事者を出す、監修を入れるという最低限のことをしただけで、物語の説得力向上にそこまで熱を入れてなかった印象だ。なめられたものである。さらには「わかってる人」をさらにおとしめるような「優生」というネーミングを字幕だけで出すという悪趣味なこともしてしまった。
物語はフィクションでも、どこかでリアルを感じさせるのが、「物語」の持つ力だ。今回はそれは「恋愛」ものとしては単に「障害を乗り越えて」という描き方しかされていなかった。そして、その材料として、手を出してはいけないものまで放り込んでしまった。「ある程度は仕方ないな、手話のことに関心を持ってもらえるなら」と目をつぶってきた人たちも、さすがにまずいでしょとなった。この件は、IGBの伊藤さんがブログを書いているし、BPOにも署名を集めて出したみたいだ。それから、手話研究仲間であるのぞみさんもブログ記事を出していた。
手話についてはこちらのYouTubeチャンネルで、大学生のろう者であるみゆうさんが、「日本手話なの? 対応手話ではなさそうだけど、日本手話としては音韻違反が…」と指摘している。それから、マイノリティの言語だから、その姿を正しく表現して欲しいとも。
リアルというか一般大衆というか、知識がない人が見て楽しめることと、知識がある人、題材にされているものに近い人が、ある程度納得して、また不要に傷つかずに見られること(楽しめるかはともかく)は両立できないのだろうか。
これは翻って、研究にも同じようなチャレンジがあって、考えてしまう。私にとってはまさに、自分は楽しく手話を題材に言語研究をしていきたいのだが、社会がこの状況だと、「楽しく」だけでは無理がある。社会に向かってどうしていくか、常に考えている。結局のところ、いつか言われたことだ。「ろう者のためになるように、ろう者と一緒に、ろう者の研究をすること」このガイドは、守ってやっているつもりだが、常にくさびを打たれているような感覚にもなる。しかし、結局のところ話者コミュニティと関係を維持するにはこの姿勢を見せ続けなければ研究自体が薄っぺらくなってしまうのであった。
一般大衆向けの創作も、影響力が大きいだけに同じようなガイドラインがあってしかるべきだ。マイノリティを題材にするとき、「その人たちの不利益にならないように」「当事者と一緒に」作ることが必要だ。まずはその基本ラインを確認したいものである。その上で「楽しく」「無音で画面を見てもらえる」みたいなテクニックの話をしたらよいのではないだろうか。
まあそんなこんなで、今年も「手話の面白さを遠慮無く扱える世の中」に近づけるために、そうでない世の中の改善を目指していこうと思うのでした。